選手時代は華やかな成績ばかりが並ぶ落合博満選手。
そして引退後は中日を常勝軍団に導いた手腕が光りました。
しかしその後、中日のGMに就任してからというもの、チームは低迷続きで、解任、そして落合博満の代名詞である「オレ流」は失敗…そういった言葉が踊るようになりました。
果たしてそれらの言葉は本当なのか、迫ってみましょう。
名選手・名監督からGMへ。その手腕はどうだったのか?
落合 博満(おちあい ひろみつ)
生年月日 | 1953年12月9日(62歳) |
出身地 | 秋田県南秋田郡若美町 |
身長 | 178cm |
体重 | 80kg |
ポジション | 内野手 |
投打 | 右投右打 |
プロ入り | 東芝府中〜1978年 ドラフト3位 |
2013年10月9日から中日の新GMとなった落合博満CM。
就任直後の落合博満GMは、選手の高騰した年俸に対してメスを入れ、チーム全体として大幅な年俸の節減を果たしたことが話題となりました。
球団の経営を考えても、無駄な人件費は節約しなければならない…
その点では、実際の成績を考えた上で査定を下す手法は、チームに波紋を広げただけでなく、経営面の健全化につながりました。
就任1年目の大減俸政策
選手 | 成績 | 前年 | 年俸 |
---|---|---|---|
吉見一起 | 1勝4敗 | 2億9000万 | →1億7400万 |
和田一浩 | 率.275本18 | 3億3000万 | →2億5000万 |
荒木雅博 | 率.222本0 | 1億7000万 | →1億0200万 |
浅尾拓也 | 2勝3敗1s | 2億2000万 | →1億6500万 |
しかし、その一方で選手のモチベーションを低下させることにもつながりました。
また、ドラフト会議の席上では、当初の予定とは違う選手を鶴の一声で指名し現場が本当に必要としている人材を獲得しようとしなかったことで、現場との意見の食い違いが生まれただけでなく、あくまでも「オレ流」を貫いたことで、現場の要望よりも自分自身の方針を押し通したのです。
しかしながら落合博満GMの監督時代の手腕は卓越したものでした。
8年間の監督生活の中で、中日を4度の優勝!
徹底した練習とぶれない采配で一度もBクラスに転落したことなく、安定した強さを発揮しました。
落合博満監督成績
セ順位 | 試合数 | 勝 | 負 | 引 | 勝率 | 貯金 |
---|---|---|---|---|---|---|
1位(2004年)※ | 138 | 79 | 56 | 3 | .585 | 23 |
2位(2005年) | 146 | 79 | 66 | 1 | .545 | 13 |
1位(2006年) | 146 | 87 | 54 | 5 | .617 | 33 |
2位(2007年)※ | 144 | 78 | 64 | 2 | .549 | 14 |
3位(2008年) | 144 | 71 | 68 | 5 | .511 | 3 |
2位(2009年) | 144 | 81 | 62 | 1 | .566 | 19 |
1位(2010年)※ | 144 | 79 | 62 | 3 | .560 | 17 |
1位(2011年) | 144 | 75 | 59 | 10 | .560 | 16 |
通算:8年 | 1150 | 629 | 491 | 30 | .562 | 138 |
※日本シリーズ制覇
しかし、落合世代の選手たちが高齢化し引退していくことで、GMとして世代交代を上手く推し進めることができず、低迷の要因を作ってしまいました。
監督としては優れた手腕を発揮しましたが、GMとしては「オレ流」を押し通した結果、チームは低迷のどん底に沈ませてしまったのです。
GM解任は濃厚か?
落合博満GMが誕生したのは2013年10月。
しかし、監督時代には現場でその手腕をいかんなく発揮した反面で、GMに就任してからと言うもの、チームはBクラスが続いています。
落合博満GM後の成績
順位 | 試合数 | 勝 | 負 | 引 | 勝率 | 貯金 |
---|---|---|---|---|---|---|
4位(2014年) | 144 | 67 | 73 | 4 | .479 | -6 |
5位(2015年) | 143 | 62 | 77 | 4 | .446 | -15 |
6位(2016年)9/26 | 141 | 58 | 80 | 3 | .420 | -22 |
通算:3年 | 428 | 187 | 230 | 11 | .448 | -43 |
今季は中日球団としては節目である80周年の年であったにもかかわらず、チームは最下位という位置にいるのが現状です。
GMに就任してもなお「オレ流」を貫く落合博満GM。
しかしそのやり方に現場は不満を持ち、谷繁監督との確執も深まったと言われています。
谷繁 元信(たにしげ もとのぶ)
生年月日 | 1970年12月21日(45歳) |
出身地 | 広島県比婆郡東城町 |
身長 | 176cm |
体重 | 81kg |
ポジション | 捕手 |
投打 | 右投右打 |
プロ入り | 江の川高〜1988年 ドラフト1位 |
中日・谷繁監督、事実上の解任 落合GMの意中の人は
「最低4年は考えてます」2013年10月、落合博満氏の中日ドラゴンズGM就任と谷繁元信捕手の兼任監督就任が決まった。その会見の席上で、谷繁監督の契約年数を問われた落合GMはこう応じていたのだが、その言は反故にされた。8月9日、中日は谷繁監督の休養を発表した。
「事実上の解任です。チーム史上初となる“4年連続Bクラス”の危険性が高まり、責任を被されました」と大手紙デスクが語る。「就任当初は両者の関係は良好だったんです。亀裂が入ったのは、14年のドラフト。谷繁監督の要望が無視され、GMの独断で指名選手が決められたのです」このとき谷繁が要望したのは、山崎康晃(現DeNA)と高木勇人(現巨人)の両投手とされる。いずれも敵チームの主力として活躍中だが、翻って中日が獲得した選手はパッとしない。「さらに15年のオフ、FA権を取得していた西武・炭谷銀仁朗捕手の獲得に失敗したことも、溝を深める一因となりました。谷繁は、炭谷に来てもらって監督業に重きを置きたかったのですが、落合GMは獲得に乗り気ではなかった」そんな二人の関係が修復不可能になったのが、今季のコーチ人事である。
「監督が招聘した波留コーチが二軍に降格し、腹心の佐伯二軍監督がクビになりかけた。監督の反発でクビは回避されたのですが……」佐伯に与えられたのは“守備コーチ”という、他球団では聞いたこともない屈辱的な窓際ポストだった。「今季のコーチ陣は“落合派”で固められ、監督は思うような采配が振れなかった。そもそも谷繁が監督専任になったのは今季から。たった数カ月で見限るというのはどう見てもおかしい」後任は、小笠原道大二軍監督の昇格が有力。意外にも中日の二軍は、ウエスタン・リーグでソフトバンクと優勝争いの真っ最中だ。「現役時、巨人に棄てられた小笠原を拾ったのが落合GM。もちろんゴリゴリの“落合派”です。佐伯コーチも退団が決まり、“反落合派”は一掃されました」
最後に、3年前に話を戻そう。就任会見で落合GMはこうも語っていた。「(GMは)監督以上に責任は重い」人はこれを「ブーメラン」と呼ぶ。
引用:http://zasshi.news.yahoo.co.jp/
結果的にチームの成績不振を理由にシーズン途中で監督退任に追い込まれ比較的関係が良好とされる監督時代の参謀役・森繁和コーチに監督代行を任せることとなりました。
森 繁和(もり しげかず)
生年月日 | 1954年11月18日(61歳) |
出身地 | 千葉県長生郡一宮町 |
身長 | 181cm |
体重 | 81kg |
ポジション | 投手 |
投打 | 右投右打 |
プロ入り | 住友金属〜1978年 ドラフト1位 |
しかしチームを時間が経過するにつれて、その状態が悪くなり今季はついに最下位の座が見えてきました。
球団内からも、2017年の年明け早々に切れるGMとしての契約を更新しないとする向きが強くなっているようです。
GM就任後も、チームとして結果が出ていないだけにそれも当然の話でしょう。
しかしその一方で球団としては功労者であり、監督としての手腕は認められているだけに、将来的に監督として復帰する可能性はけして否定は出来ません。
または他の球団内部の要職に就く可能性もあるでしょう。
ただしGMに関しては、目下の成績を見ても解任が濃厚なのではないでしょうか。
スラッガー落合博満の現役時代
年度別打撃成績
1978年 (25歳) ドラフト3位 契約金2700万円
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|
1979年(26)ロッテ | 36 | .234 | 7 | 2 | 1 | 360万 |
1980年(27) | 57 | .283 | 32 | 15 | 1 | 360万 |
1981年(28) | 127 | .326 | 90 | 33 | 6 | 540万 |
1982年(29) | 128 | .325 | 99 | 32 | 8 | 1600万 |
1983年(30) | 119 | .332 | 75 | 25 | 6 | 5400万 |
1984年(31) | 129 | .314 | 94 | 33 | 8 | 5940万 |
1985年(32) | 130 | .367 | 146 | 52 | 5 | 5940万 |
1986年(33) | 123 | .360 | 116 | 50 | 5 | 9700万 |
1987年(34)中日 | 125 | .331 | 85 | 28 | 1 | 1億3000万 |
1988年(35) | 130 | .293 | 95 | 32 | 3 | 1億3000万 |
1989年(36) | 130 | .321 | 116 | 40 | 4 | 1億3000万 |
1990年(37) | 131 | .290 | 102 | 34 | 3 | 1億6500万 |
1991年(38) | 112 | .340 | 91 | 37 | 4 | 2億2000万 |
1992年(39) | 116 | .292 | 71 | 22 | 2 | 3億0000万 |
1993年(40) | 119 | .285 | 65 | 17 | 1 | 2億5000万 |
1994年(41)巨人 | 129 | .280 | 68 | 15 | 0 | 3億8000万 |
1995年(42) | 117 | .311 | 65 | 17 | 1 | 3億8000万 |
1996年(43) | 106 | .301 | 86 | 21 | 3 | 3億8000万 |
1997年(44)日ハム | 113 | .262 | 43 | 3 | 3 | 3億0000万 |
1998年(45) | 59 | .235 | 18 | 2 | 0 | 3億0000万 |
プロ通算:20年 | 2236 | .311 | 1564 | 510 | 65 |
落合博満選手は長嶋茂雄氏に憧れを抱く反面で、先輩・後輩の上下関係といった野球部ならではの風習を嫌い、当時は高校野球でも無名だった秋田工業高校を選択しました。
高校を選ぶ段階で、すでに「オレ流」が出来上がっていたと感じさせるエピソードです。
その「オレ流」は社会人になってからも続き、東洋大学に進学するも、下級生が上級生のタバコを火をつけるという行為に嫌気が差し、大学を中退。
東芝府中の臨時工員として働きながら、親会社の東芝府中の野球部に所属していました。
そのときの打撃が注目され、ドラフト3位でロッテに入団するのです。
プロになっても、あくまでも自分自身のスタイルを貫きました。
コーチの助言も、自分にプラスになるものだけを参考にしながら、自分が着になる先輩のフォームを真似ながら、その打撃を磨いていきました。
その結果、入団からわずか4年目の1982年に史上最年少の三冠王に輝いたのです。
1985年には自身が前回三冠王を記録した成績を上回る打率.367、52本塁打、146打点という成績で2度目の三冠王、翌86年も史上初3度目の三冠王を樹立!
歴代三冠王
年度 | 選手 | 球団 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 他 |
---|---|---|---|---|---|---|
1938年 | 中島 治康 | 巨人 | .361 | 10 | 38 | 最多安打・長打率 |
1965年 | 野村 克也 | 南海 | .320 | 42 | 110 | 最多得点・最多安打 他 |
1973年 | 王 貞治 | 巨人 | .355 | 51 | 114 | 最多得点・最多安打 他 |
1974年 | 王 貞治 | 巨人 | .332 | 49 | 107 | 最多得点・最多塁打 他 |
1982年 | 落合 博満 | ロッテ | .325 | 32 | 99 | 最多安打・最多塁打 他 |
1984年 | ブーマー | 阪急 | .355 | 37 | 130 | 最多安打・最多塁打 他 |
1985年 | バース | 阪神 | .350 | 54 | 134 | 最多安打・最多塁打 他 |
1985年 | 落合 博満 | ロッテ | .367 | 52 | 146 | 最多塁打・長打率 他 |
1986年 | バース | 阪神 | .389 | 47 | 109 | 最多塁打・長打率 他 |
1986年 | 落合 博満 | ロッテ | .360 | 50 | 116 | 出塁率・長打率 他 |
2004年 | 松中 信彦 | ダイエー | .358 | 44 | 120 | 最多得点・最多塁打 他 |
1986年オフにトレードで中日に移籍し、打点王2回、本塁打王2回とタイトルを獲得し、1993年オフに巨人へFA移籍。
そして1997年には日本ハムでプレーしました。
選手としては超一流の成績を残してきた落合博満選手。
内角球の芸術的なさばき方には定評があり、それが数多くの本塁打を生み出すことにつながりました。
独特な神主打法から繰り出されるヒットメーカーであり、スラッガーでもあったのです。
まとめ
落合GMの成否はどうか…と言われれば、現状ではその成果は出ていないと言わざるを得ません。
なんせ、GM就任後に獲得した選手たちは1軍で結果を残していないのですから。
しかも即戦力が中心となれば、そのことをとがめられても仕方がありません。
その結果から解任のウワサは耐えません。
確かにすぐに結果が出るものではありません。
「オレ流」は選手、監督しては成功でも、GMとしては通用しないと見る向きもあります。
GMとして3年が経過しただけに、解任となるか続投となるか注目です。