現在、巨人の斎藤雅樹2軍監督は、第1回U-23の野球W杯で監督を務め、見事優勝を飾り、初代王者となりました。
監督としての手腕が世間的にも評価される中で、果たしてかつての巨人の大エースは、将来の巨人監督候補に挙がるのでしょうか?
斎藤雅樹の経歴・生い立ち
斎藤雅樹氏は1965年2月18日生まれで今年51歳。
埼玉県川口市出身です。
斎藤 雅樹(さいとう まさき)-読売ジャイアンツ (1983 – 2001)
生年月日 | 1965年2月18日(51歳) |
出身地 | 埼玉県川口市 |
身長 | 181cm |
体重 | 98kg |
ポジション | 投手 |
投打 | 右投右打 |
プロ入り | 市立川口高〜1982年 ドラフト1位 |
プロ通算:19年 | 登426 防2.77(180勝96敗11セーブ)投2375.2 振1707 |
小学5年時に、母親が本人に伝えることなく、リトルリーグに入団に応募したことから始まりました。
やる気はなかったらしく本当は嫌だったようですが入団テストに合格し、巨人の大エースへの道がスタートしたのです。
その後、地元の中学、高校へと進学しました。
市立川口高校では埼玉県大会決勝まで進んだことはありましたが、甲子園出場は目の前で絶たれてしまいました。
第64回全国高校野球選手権大会埼玉予選 (1982年)
回戦 | 対戦校 | 勝敗 | |
一回戦 | 狭山工 | ○ | 10-1 |
二回戦 | 狭山 | ○ | 10-0 |
三回戦 | 春日部東 | ○ | 4-1 |
四回戦 | 埼玉栄 | ○ | 5-3 |
準々決勝 | 春日部工 | ○ | 4-2 |
準決勝 | 鴻巣 | ○ | 6-3 |
決勝 | 熊谷 | ● | 1-3 |
それでも投手だけでなく野手としてのセンスも高く身体能力の高さが評価されて1982年のドラフト1位で巨人に指名されたのです。
1982年 ドラフト
1位 | 斎藤 雅樹 | 投手 | 市立川口高 |
2位 | 岡本 光 | 投手 | 松下電器 |
3位 | 石井 雅博 | 外野手 | 明治大学 |
4位 | 川相 昌弘 | 投手 | 岡山南高 |
5位 | 中島 浩人 | 投手 | 日本鋼管 |
6位 | 藤本 茂喜 | 内野手 | 明徳高 |
入団後3年目には12勝を挙げ頭角を現し、巨人の大エースとなっていくのですが、6年目の1988年に今の奥様とご結婚されました。
お相手は高校時代の野球部のマネージャーで純愛を貫きました。
何でも結婚に際しては当時巨人のエース候補だった斎藤投手に対して奥さんは「一流選手だから、他にもっといい相手がいるのでは」と考えていたようです。
いわゆるマリッジブルーなのでしょうか。
それでも斎藤投手は一途に愛を貫き結婚に至りました。
お子さんも3人いらっしゃいます。
斎藤雅樹の全盛期の投球は?
斎藤雅樹氏の現役時代の投球といえば、ゆったりとしたサイドスローからのストレートとカーブ、シンカーを交えた技巧的なピッチングが持ち味でした。
入団後は「気が弱い」という首脳陣の評価から先発を外された時期もありました。
斎藤雅樹投手が開花したのは藤田元司氏が二度目の監督就任の1年目1989年。
藤田 元司(ふじた もとし)-監督歴:読売ジャイアンツ (1981 – 1983, 1989 – 1992)
生年月日 | 1931年8月7日(満74歳没) |
出身地 | 愛媛県新居浜市 |
身長 | 173cm |
体重 | 64kg |
ポジション | 投手 |
投打 | 右投右打 |
プロ入り | 日本石油〜読売ジャイアンツ (1957 – 1964) |
プロ通算:8年 | 登364 防2.20(119勝88敗)投1701.0 振924 |
それまでは中継ぎメインだった起用法から先発に定着。
3試合連続完封勝利、11試合連続完投勝利という破竹の記録を作り出し、絶対的なエースとして君臨しました。
完投能力も戦ったことから「ミスター完投」と呼ばれるほどでした。
1989年から2年連続で20勝をマークして最多勝を獲得。
タイトル・表彰
最多勝利 | 5回 (1989年、1990年、1992年、1995年、1996年) |
最優秀防御率 | 3回 (1989年、1990年、1996年) |
最多奪三振 | 1回 (1995年) |
最高勝率 | 3回 (1990年、1992年、1996年) |
MVP | 1回 (1990年) |
沢村賞 | 3回 (1989年、1995年、1996年) |
ベストナイン | 5回 (1989年、1990年、1992年、1995年、1996年) |
最優秀投手 | 5回 (1989年、1990年、1992年、1995年、1996年) |
ゴールデングラブ賞 | 4回 (1990年、1992年、1995年、1996年) |
月間MVP | 5回 (1989年6月、1990年5月、1990年7月、1994年6月、1995年7月) |
最優秀バッテリー賞 | 1回 (1996年、捕手:村田真一) |
IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞 | 5回 (1989年、1990年、1994年、1995年、1996年) |
最優秀JCB・MEP賞 | 2回 (1990年、1995年) |
優秀JCB・MEP賞 | 1回 (1989年) |
JA全農Go・Go賞 | 1回 (最多奪三振賞:1995年5月) |
東京ドームMVP | 1回 (1994年) |
この覚醒した1989年には8月12日の中日戦で9回1死までノーヒットノーランの快投を見せながら、1本のヒットを皮切りに、落合博満選手にサヨナラ3ランを浴びるという痛い登板もありました。
▲ 9回1/3までノーヒットノーランピッチング。
▲ 中日の4番落合博満に逆転の3点本塁打を浴びます。
それでもその年21度の完投、7度の完封を達成し防御率1.62で最優秀防御率のタイトルも獲得しました。
過去、最多勝を5回、最優秀防御率を3回、最多奪三振を1度受賞し、沢村賞にも3度選ばれ、まさに平成の大エースだったのです。
年度別投手成績
1982年 (18歳) ドラフト1位 契約金3500万
年度 | 登板 | 防御率 | 勝敗 | 投球回 | 三振 | 年俸 |
1983年(19) | – | — | – | – | – | 300万 |
1984年(20) | 17 | 3.07 | 4勝0敗 | 44.0 | 43 | 360万 |
1985年(21) | 41 | 2.96 | 12勝8敗7セーブ | 155.0 | 124 | 520万 |
1986年(22) | 35 | 2.40 | 7勝3敗1セーブ | 90.0 | 63 | 1260万 |
1987年(23) | 6 | 18.00 | 0勝0敗 | 5.0 | 4 | 1260万 |
1988年(24) | 38 | 1.89 | 6勝3敗3セーブ | 66.2 | 55 | 960万 |
1989年(25) | 30 | 1.62 | 20勝7敗 | 245.0 | 182 | 1440万 |
1990年(26) | 27 | 2.17 | 20勝5敗 | 224.0 | 146 | 4500万 |
1991年(27) | 24 | 3.38 | 11勝11敗 | 178.2 | 103 | 8400万 |
1992年(28) | 25 | 2.59 | 17勝6敗 | 187.2 | 148 | 7600万 |
1993年(29) | 23 | 3.19 | 9勝11敗 | 149.2 | 105 | 1億1800万 |
1994年(30) | 30 | 2.53 | 14勝8敗 | 206.1 | 144 | 1億1500万 |
1995年(31) | 28 | 2.70 | 18勝10敗 | 213.0 | 187 | 1億8000万 |
1996年(32) | 25 | 2.36 | 16勝4敗 | 187.0 | 158 | 2億7000万 |
1997年(33) | 19 | 4.11 | 6勝8敗 | 118.1 | 61 | 3億3000万 |
1998年(34) | 23 | 3.08 | 10勝7敗 | 146.1 | 93 | 2億9000万 |
1999年(35) | 17 | 4.66 | 5勝2敗 | 83.0 | 45 | 2億9000万 |
2000年(36) | 5 | 2.10 | 3勝1敗 | 34.1 | 20 | 2億5000万 |
2001年(37) | 13 | 4.32 | 2勝2敗 | 41.2 | 26 | 2億1000万 |
プロ通算:19年 | 426 | 2.77 | 180勝96敗11セーブ | 2375.2 | 1707 |
さて、その頃の巨人の投手陣といえば、エース・斎藤投手を筆頭に、桑田真澄投手、槙原寛己投手、とともに、3本柱と呼ばれました。
桑田 真澄(くわた ますみ)-読売ジャイアンツ (1986 – 2006)
槙原 寛己(まきはら ひろみ)-読売ジャイアンツ (1982 – 2001)
巨人が2位・広島に9ゲームの差をつけ、ぶっちぎりの優勝を遂げた1989年には斎藤投手が20勝、桑田投手が17勝、槙原投手が12勝を挙げる、磐石な布陣となりました。
そこから約10年間この三本柱が巨人投手陣を支えて行きます。
三本柱年度別勝利数
年度 | 斎藤雅樹 | 桑田真澄 | 槙原寛己 |
---|---|---|---|
1982年 | – | – | (プロ入り)– |
1983年 | (プロ入り)– | – | 12 |
1984年 | 4 | – | 8 |
1985年 | 12 | – | 4 |
1986年 | 7 | (プロ入り)2 | 9 |
1987年 | 0 | 15 | 10 |
1988年 | 6 | 10 | 10 |
1989年 | 20 | 17 | 12 |
1990年 | 20 | 14 | 9 |
1991年 | 11 | 16 | 9 |
1992年 | 17 | 10 | 12 |
1993年 | 9 | 8 | 13 |
1994年 | 14 | 14 | 12 |
1995年 | 18 | 3 | 11 |
1996年 | 16 | – | 6 |
1997年 | 6 | 10 | 12 |
1998年 | 10 | 16 | 6 |
1999年 | 5 | 8 | 4 |
2000年 | 3 | 5 | 0 |
2001年 | (引退)2 | 4 | (引退)0 |
2002年 | – | 12 | – |
2003年 | – | 5 | – |
2004年 | – | 3 | – |
2005年 | – | 0 | – |
2006年 | – | (退団)1 | – |
通算 | 180 | 173 | 159 |
巨人の大エースでも監督にはなれないのか?
Uー23W杯の初代優勝監督でもあり、かつての巨人の大エースであった斎藤雅樹氏。
現在巨人の2軍監督を務めていますが、にもかかわらず巨人の1軍監督を務めることはないのでしょうか。
近年の巨人は長嶋茂雄氏、原辰徳氏のように長期政権が多かったこともありますが、かつては藤田元司氏、堀内恒夫氏といった巨人生え抜きの投手が監督を務めたこともありました。
▲ 長嶋茂雄監督歴:読売ジャイアンツ (1972 – 1980, 1993 – 2001)
原辰徳監督歴:読売ジャイアンツ (1999 – 2003, 2006 – 2015)
▲ 藤田元司監督歴:読売ジャイアンツ (1981 – 1983, 1989 – 1992)
堀内恒夫監督歴:読売ジャイアンツ (2004 – 2005)
しかし監督にもスター性を求める傾向が強い中で、生え抜きの投手が監督を務めるということが少ないようです。
かつての巨人エースの江川卓氏や桑田真澄氏も中々監督候補に挙がってきません。
調べてみると球団創設時に巨人軍監督になる為の「就任条件3ヵ条」のようなものがあり以下の項目を満たさないと監督就任は難しいようですね。
当時からの3か条から現在は、緩和されたようですがそれでも限られた人たちに絞られますね。
① 他球団に移籍経験の無い花形OB
② コーチ経験がある事
③ 球団ともめ事が無い事
斎藤雅樹氏は性格上とても優しいようで、巨人という球界の盟主を支える監督としては、その性格が不向きではないかとも言われています。
どうしても打者出身に監督が偏る傾向の中で、斎藤雅樹氏が監督に就任するのは難しいのかもしれませんね。
まとめ
たとえかつての巨人の屋台骨を支えた大エースであっても、現状では巨人の一軍監督就任はなかなか難しいようです。
しかし、Uー23W杯初代優勝に導いたその手腕が、果たして集団の中でどう評価されるのかが注目されます。