中畑氏と言えば、現役時代は「絶好調!」という言葉で人気となった選手でした。
後にアテネ五輪ヘッドコーチを務め、横浜DeNAベイスターズの監督にも就任しましたね!
監督経験を積んだことでOBである巨人の監督の可能性についても気になるところでしょう。
そこで、今回は中畑清氏についてご紹介させていただきますね!
中畑清の経歴・生い立ち
中畑氏は福島県西白河群矢吹町の出身で今年62歳になります。
幼少の頃、長嶋茂雄さんに憧れて野球を始めポジションも同じ三塁手でした。
中畑 清(なかはた きよし) -読売ジャイアンツ (1976 – 1989)

| 生年月日 | 1954年1月6日(62歳) |
| 出身地 | 福島県西白河郡矢吹町 |
| 身長 | 185cm |
| 体重 | 90kg |
| ポジション | 内野手 |
| 投打 | 右投右打 |
| プロ入り | 駒澤大学〜1975年 巨人ドラフト3位 |
| NPB通算:13年 | 試1248 率.290(4458打数1294安打)本171 点621 盗70 |
安積商業時代
高校は地元福島県の安積商業高校出身。
現在は、帝京安積高等学校という校名になっています。
高校時代は三塁手を始めとして、遊撃手や捕手も務めるなど器用さも見せています。
出身高校自体、甲子園経験が2度しかなく、中畑さん自信も甲子園出場経験はありません。
安積商業高 甲子園通算成績
| 大会 | 出場回数 | 勝敗 | 優勝 | 準優勝 | ベスト4 |
| 春の選抜 | 2回 | 0勝2敗 | 0 | 0 | 0 |
| 夏の選手権 | 0回 | 0勝0敗 | 0 | 0 | 0 |
| 甲子園通算 | 2回 | 0勝2敗 | 0 | 0 | 0 |
駒澤大学時代
大学時代は、直射日光を避ける為の偏光サングラスを着用。
すり足打法が全盛の時代に一本足打法をする選手として一躍注目を浴びます。

▲ 駒澤大学時代直射日光を避ける為の偏光サングラスを着用。柄悪いです。
大学2年の頃には首位打者争いをするなど、頭角を徐々に現し始めます。
1973年には秋季リーグの最高殊勲選手を獲得、他にもベストナインに4度選出といった活躍を見せます。
駒澤大学時代 打撃成績
| 年度 | 試合 | 打率 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
| 1972~75年 | 82 | .307 | 300/92 | 10 | 51 | – |
大学時代の記録
| ベストナイン | 4回 |
| 全日本 | 2回 |
1975年ドラフト会議
1975年のドラフト会議で3位指名を受けて巨人に入団を果たしています。
この時、北海道拓殖銀行への就職内定が決まっていたこともあり、入団には迷いもあったとされていました。
憧れの長嶋茂雄さんが監督を務めていたことや指名されなかった同じチームの選手2人も受け入れてくれるなら入団すると打診。

巨人側がこれを受諾したことで巨人の一員となったという背景もあったのです。
ドラフト指名選手
| 1位 | 篠塚 利夫 | 内野手 | 銚子商業高 |
| 2位 | 岡田 忠雄 | 捕手 | 中京高 |
| 3位 | 中畑 清 | 内野手 | 駒澤大学 |
| 4位 | 猪口 明宏 | 外野手 | 天理高 |
| 5位 | 山本 功児 | 内野手 | 本田技研鈴鹿 |
| 6位 | 柿木 孝哉 | 内野手 | 宮崎商業高 |

▲ 舎弟のイメージがあった「篠塚和夫」さんが同期入団だったのですね
本来であれば、憧れの人がいる球団ですから文句なしに決まりそうなものですが、チームメイトの事や就職先のこと等も踏まえた上で決断する辺り、中畑選手の人柄を表しているようにも思えますね。

また家族構成についても触れておきますと奥さんと長男、長女に自身を含めた4人家族でしたが、奥さんが2012年に子宮頸がんにより他界、現在は3人家族となっています。

▲ 左)中畑清さん(右)中畑仁美さん
中畑清さんの下積み時代を支えたと言われる妻、仁美さん。
36年間連れ添った仁美さんへの悲しみの深さは想像を絶するものがあります……。
中畑清の巨人現役時代は?
中畑氏の現役時代についてですが、当時の巨人は王選手、張本選手などそうそうたる顔ぶれ。
入団から3年間は一軍での出場機会に恵まれませんでした。

入団当時の巨人打線 -読売ジャイアンツ (1976年)
| 1番 | 柴田 勲 | センター | 試121 率.284(395打数112安打)本10 点36 盗20 |
| 2番 | 高田 繁 | サード | 試118 率.305(492打数131安打)本13 点58 盗17 |
| 3番 | 張本 勲 | レフト | 試130 率.355(513打数182安打)本22 点93 盗8 |
| 4番 | 王 貞治 | ファースト | 試122 率.325(400打数130安打)本49 点123 盗3 |
| 5番 | 末次 利光 | ライト | 試119 率.281(303打数85安打)本9 点47 盗1 |
| 6番 | ジョンソン | セカンド | 試108 率.365(371打数102安打)本26 点74 盗1 |
| 7番 | 吉田 孝司 | キャッチャー | 試124 率.260(377打数98安打)本5 点37 盗0 |
| 8番 | 河埜 和正 | ショート | 試124 率.244(320打数78安打)本5 点24 盗10 |
| 9番 | 小林 繁 | ピッチャー | 登43 防2.99(18勝8敗2セーブ)投217.1 振129 |
3年目のオフとなる1978年に開催された日米野球で途中出場ながら、相手の抑えだった選手から本塁打を放ち、これがきっかけとなって翌年から一軍に定着しだします。
日米野球 – (1978年)
| 第1戦 1978年10月28日 | ||||
| シンシナティ・レッズ |
6
|
ー |
7
|
巨人 |
| 勝利投手 | 新浦 壽夫 |
| 敗戦投手 | マリオ・ソト |
| 本塁打 | フォスター1号 サマーズ1号 王1号 中畑1号 |
レギュラー獲得〜 – (1979年)
1979年、正三塁手の高田選手が怪我で戦列を離れてからはレギュラーの座を奪取!

1981年には原選手が入団するなど、再びレギュラー争いが激化しますが最終的に一塁手としての出場。

この年、打率.322、16本塁打、66打点の好成績をマークしています。
その後、1984年に不振の原選手に代わり、四番として活躍。

自己最多となる31本の本塁打とオールスターゲームで2戦連続の本塁打を放つ等、勝負強さも見せてくれました!
絶好調中畑の巨人打線 -読売ジャイアンツ (1984年)
| 1番 | 松本 匡史 | センター | 試121 率.259(394打数102安打)本3 点24盗45 |
| 2番 | 篠塚 和典 | セカンド | 試126 率.334(461打数154安打)本12 点66 盗7 |
| 3番 | クロマティ | レフト | 試130 率.280(488打数128安打)本35 点93 盗4 |
| 4番 | 中畑 清 | ファースト | 試130 率.294(493打数145安打)本31 点83 盗4 |
| 5番 | スミス | ライト | 試84 率.255(263打数59安打)本28 点72 盗2 |
| 6番 | 原 辰徳 | サード | 試130 率.278(468打数130安打)本27 点81 盗7 |
| 7番 | 河埜 和正 | ショート | 試111 率.248(299打数77安打)本13 点46 盗8 |
| 8番 | 山倉 和博 | キャッチャー | 試114 率.241(340打数82安打)本12 点43 盗1 |
| 9番 | 西本 聖 | ピッチャー | 登31 防3.12(15勝11敗)投224.2 振91 |
今季の巨人打線も見習ってほしい強力な打線でしたね。
35歳になった1989年には引退を表明し、選手生活に幕を下ろしています。

NPB年度別打撃成績
1975年(21歳)ドラフト3位
| 年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 三振 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1976年(22) | – | – | – | – | – | – |
| 1977年(23) | 7 | .400(5打数2安打) | 0 | 0 | 0 | 1 |
| 1978年(24) | 5 | .333(3打数1安打) | 1 | 0 | 0 | 1 |
| 1979年(25) | 100 | .294(333打数98安打) | 45 | 12 | 4 | 46 |
| 1980年(26) | 124 | .268(459打数123安打) | 57 | 22 | 10 | 53 |
| 1981年(27) | 109 | .322(416打数134安打) | 66 | 16 | 10 | 37 |
| 1982年(28) | 124 | .267(468打数125安打) | 78 | 25 | 4 | 71 |
| 1983年(29) | 114 | .300(493打数125安打) | 68 | 15 | 13 | 39 |
| 1984年(30) | 130 | .294(493打数145安打) | 83 | 31 | 4 | 64 |
| 1985年(31) | 125 | .294(490打数144安打) | 62 | 18 | 7 | 39 |
| 1986年(32) | 127 | .273(447打数122安打) | 69 | 14 | 7 | 67 |
| 1987年(33) | 110 | .321(371打数119安打) | 40 | 6 | 6 | 46 |
| 1988年(34) | 124 | .295(444打数131安打) | 46 | 10 | 5 | 35 |
| 1989年(35) | 49 | .221(113打数25安打) | 6 | 2 | 0 | 24 |
| NPB通算:14年 | 135 | .290(4458打数1294安打) | 621 | 171 | 70 | 523 |
現役当時は、闘志を前面に押し出したプレースタイルと明るい性格はチームのムードメーカーの役割も担ます。

バッターのタイプは中距離打者で安定した打率を残していたことでも知られており、守備も一塁手として7度のゴールデングラブに輝いています!
表彰
| ゴールデングラブ賞 | 7回 (一塁手部門:1982年 – 1988年) |
| 日本シリーズ優秀選手賞 | 1回 (1983年) |

現役時代のライバル
チーム内ライバルとして挙げられるのは、プロ5年目に入団してくることになる原辰徳選手になってくるかと思われます。
原 辰徳(はら たつのり) -選手歴:読売ジャイアンツ (1981 – 1995)

| 生年月日 | 1958年7月22日(58歳) |
| 出身地 | 神奈川県相模原市 |
| 身長 | 181cm |
| 体重 | 88kg |
| ポジション | 内野手 |
| 投打 | 右投右打 |
| プロ入り | 東海大学〜1980年巨人ドラフト1位 |
| NPB通算:15年 | 試1697 率.279(6012打数1675安打)本382 点1093 盗82 |
また現役当時ファンの間では、黄金期西武ライオンズ主力の石毛宏典選手と比較していました。
同年代巨人、西武、両チームのキャプテンとしてチームを引っ張っりお互いの明るいキャラクターを持っていてなおかつバッターのタイプも似ています。
石毛選手は、駒澤大学出身なので中畑清さんの後輩だったのですね。
顔の骨格もなんだか似ています。
石毛 宏典(いしげ ひろみち) -西武ライオンズ (1981 – 1994)

| 生年月日 | 1956年9月22日(60歳) |
| 出身地 | 千葉県旭市 |
| 身長 | 180cm |
| 体重 | 75kg |
| ポジション | 内野手 |
| 投打 | 右投右打 |
| プロ入り | プリンスホテル〜1980年 西武ドラフト1位 |
| NPB通算:16年 | 試1796 率.283(6472打数1833安打)本236 点847 盗243 |
中畑清・石毛宏典の成績比較
| 中畑 清 |
項目 | 石毛 宏典 |
| 185cm | 身長 | 180cm |
| 90kg | 体重 | 75kg |
| 1248(通算14年) | 通算試合数 | 1796(通算16年) |
| .290 | 打率(通算) | .283 |
| .322 | 打率(シーズン) | .329 |
| 171本塁打 | 本塁打(通算) | 236本塁打 |
| 31本塁打 | 本塁打(シーズン) | 27本塁打 |
| 621打点 | 打点(通算) | 847打点 |
| 83打点 | 打点(シーズン) | 89打点 |
| 1294安打 | 安打(通算) | 1833安打 |
| 145安打 | 安打(シーズン) | 144安打 |
| 70盗塁 | 盗塁(通算) | 243盗塁 |
| 13盗塁 | 盗塁(シーズン) | 29盗塁 |
| 523三振 | 三振(通算) | 1127三振 |
| 71三振 | 三振(シーズン) | 112三振 |
成績を比較すると通算記録は実働年数が違うのでどうやら石毛選手の方に分がありそうですが、シーズン記録は互角ではないでしょうか。
現役引退後の活躍は?
中畑氏と言えば、むしろ現役時代よりも現役引退後の方が印象は強いという方も多いのではないでしょうか?

アテネオリンピックでは脳梗塞の為、指揮が取れなくなった長嶋監督の代理として監督を務めます。
金メダルを目指してオールプロで臨んだ大会も無念の惨敗といった結果に・・・

アテネオリンピック最終順位 – (2004年)
| 順位 | 国・地域 | 勝 | 敗 | 引分 | 得点 | 失点 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | キューバ | 8 | 1 | 0 | 55 | 24 |
| 2 | オーストラリア | 5 | 4 | 0 | 52 | 26 |
| 3 | 日本 | 7 | 2 | 0 | 50 | 36 |
| 4 | カナダ | 5 | 4 | 0 | 36 | 28 |
| 5 | チャイニーズタイペイ(予選敗退) | 3 | 4 | 0 | 29 | 33 |
| 6 | オランダ(予選敗退) | 2 | 5 | 0 | 29 | 20 |
| 7 | ギリシャ(予選敗退) | 1 | 6 | 0 | 9 | 50 |
| 8 | イタリア(予選敗退) | 1 | 6 | 0 | 14 | 60 |
タレント活動
また数々のバラエティー番組にも出演。

▲ 「中畑清 熱血!スポーツ応援団」キャスター

▲ 「さんまのまんま」ゲスト出演

▲ 「中居正広の金曜日のスマたちへ」ゲスト出演
主なテレビ・ラジオ出演
| スポーツジョッキー 中畑クンと徳光クン | (1990年4月 – 1991年3月。日本テレビ)- 司会 |
| スポーツMAX(日本テレビ) | 司会(キャスター) |
| スポんちゅ(日本テレビ) | 司会(キャスター) |
| Dramatic Game 1844(日本テレビ) | 解説 |
| ニッポン放送ショウアップナイター(ニッポン放送) | 解説 |
| ラジオ日本ジャイアンツナイター(ラジオ日本) | 解説 |
| 所さんの目がテン!(2003年6月8日 日本テレビ) | ゲストVTR出演 |
DeNA監督時代
さらにはDeNAの監督にも就任しました!

中畑氏の様に現役時代よりも引退後の方が注目を集める方は少なくないのですが、明るいキャラクターを生かして、当時下位に沈んでいた横浜DeNAベイスターズの復活の基盤を作ったのは間違いなく中畑さんではないでしょうか。
チームのムードを一変させて上昇のきっかけとなったのもこの方の実績に違いは無いでしょう!
年度別監督成績 -リーグ公式戦
| 年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 本塁打 | 打率 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2012年(58) | DeNA | 6 | 144 | 46 | 85 | 13 | .351 | 41.0 | 66 | .233 | 3.76 |
| 2013年(59) | DeNA | 5 | 144 | 64 | 79 | 1 | .448 | 23.0 | 132 | .262 | 4.50 |
| 2014年(60) | DeNA | 5 | 144 | 67 | 75 | 2 | .472 | 14.5 | 121 | .253 | 3.76 |
| 2015年(61) | DeNA | 6 | 143 | 62 | 80 | 1 | .437 | 14.5 | 109 | .249 | 3.78 |
| 通算:4年 | – | – | 575 | 239 | 319 | 17 | .428 | – | – | – | – |
その次の監督が明るい性格で知られるラミレス選手であったことも少なからず、影響があったのではないかと推測できますね!

現役時代の活躍もそうですが、引退後に数々の足跡を残してきたことも中畑氏が野球殿堂入りの候補に名前が挙がる要因なのではないかと思いますよ!
まとめ
以上、中畑氏についてでした。
これだけのキャラクターを持っている人なので、現役時代も凄かったのでは?
と思われる方もいらっしゃるでしょうが、むしろ、現役時代は周囲のレベルの高さもあり、苦労人と言っても過言ではありませんでしたね。
それでも現役当時から変わらないキャラクターは今でも私たちを楽しませてくれています。
その意味では生粋のエンターテイナーと言ってもいいのではないでしょうか?

巨人の監督の可能性についてですが、正直なところ可能性は低いのではないかと見るのが妥当だと思われます。
理由として現在、球界全体の若返りを図っている背景事情があることで、それが監督選びにも影響してきていること。
さらには別の候補として松井選手といった有力候補が控えている現状を踏まえると厳しいのは間違いないですね。

それでも近年、不祥事も多かった巨人のイメージを覆すため明るい性格の巨人・中畑監督というのも見てみたいですね!
