今年行われた第四回WBCは、2大会連続で準決勝で敗退し涙を飲みました。
それにともない、侍ジャパンを率いた小久保裕紀監督は契約満了。
次期侍ジャパン監督を誰が務めるかが注目されていた中で、浮上してきたのが稲葉篤紀さんでした。
そんな稲葉篤紀さんは、どんな人物で経歴とはどのようなものでしょうか?
稲葉篤紀の経歴・生い立ち
稲葉篤紀さんは現在歳。
愛知県北名古屋市出身の元プロ野球選手で、ヤクルト、日本ハムで活躍しました。
稲葉 篤紀(いなば あつのり)-現役:ヤクルト・日ハム (1995 – 2014)
生年月日 | 1972年8月3日(歳) |
出身地 | 愛知県北名古屋市 |
身長 | 185cm |
体重 | 94kg |
ポジション | 外野手、一塁手 |
投打 | 左投左打 |
プロ入り | 中京高〜法政大学〜ヤクルト1994年 ドラフト3位 |
NPB通算:20年 | 試2213 率.286(7578打2167安打)本261 点1050 盗74 |
今でこそ、ハツラツとしたイメージのある稲葉さんですが、少年時代は気が弱くすぐに泣いてしまうような性格。
それが災いしていじめにもあっていたようです。
中京高校時代 愛知県 – ( 1988- 1991 )
高校は地元・愛知の名門・中京高校野球部に所属。
高校時代は、黙々と練習に取り組み決して弱音を吐かなかったとか。
責任感があり、ぐいぐいと引っ張っていくのではなく背中で見せるタイプの選手でした。
3年夏の大会、2回戦亨栄戦、稲葉選手のスリーランもあり7-5と勝利。
県大会決勝まで進みますが、1学年下の3番イチローがいる愛工大名電との対戦は、4-5と惜敗。
第73回選手権東京大会 – ( 1990 )
回戦 | 対戦校 | 勝敗 | |
二回戦 | 享栄 | ○ | 7-5 |
三回戦 | 名古屋市工芸 | ○ | 9-2 |
四回戦 | 一宮南 | ○ | 7-1 |
五回戦 | 岡崎東 | ○ | 8-3 |
準々決勝 | 一宮 | ○ | 11-2 |
準決勝 | 愛知 | ○ | 13-4 |
決勝 | 愛工大名電 | ● | 4-5 |
イチロー、中学時代に見た稲葉篤紀氏の思い出語る「大きな指針になってくれた」 2015年03月13日
大リーグ「マイアミ・マーリンズ」のイチロー選手(42)が、3月12日に放送されたテレビ朝日系の「報道ステーション」で、野球キャスターの稲葉篤紀氏(42)のインタビューを受けた。公の場以外では、テレビカメラの前でコメントする機会が極めて少ないイチロー選手だが、稲葉氏のインタビューは二つ返事で承諾した。イチローと稲葉氏はともに愛知県出身で、年齢も1つ違い。小学生の頃から同じバッティングセンターに通っており、インタビュー中にイチロー氏は突然、このバッティングセンターで自身が稲葉氏と最初に会った時のことを話し始めた。稲葉氏がバッティングする姿を見て、自分もプロに行けると思ったのだという。「僕が中学3年生のとき、稲葉さんが中京高校(現・中京大中京高校)のTシャツを着て、バッティングセンターにいらっしゃった。『将来この人は、確実にプロに入る人だ』と聞いていた。稲葉さんが打っているのをみて、『俺、プロいける』と思った。大変失礼な言い方ですけど。稲葉さんは大きな指針になってくれた」一方で稲葉氏は、イチローが小学生だった時の姿を見ていると語った。
「イチ君は小学校のとき、木のバットで打ってた。それがすごく印象的で、120キロ(のスピードのボールを)を本当に見事に打ってたの。すごいなあぁと思って見てた」稲葉氏は「イチローに50歳になっても野球を続けて欲しい、ひょっとしたら王(貞治)さんを超えることになるかも」と発言。しかし、イチローは自分には王監督にある品格が「僕には絶対に、得られないものだ」と述べて否定した。そして、イチローは稲葉氏も王監督と同様だと指摘した。「稲葉さんて、徳が高いじゃないですか。品性とか。誰からも愛される。こうやって僕がインタビュー受けてるのも、稲葉さんの徳が高いからですよ。稲葉さんじゃなかったら、やってないから」イチローは、2015年1月から報道ステーションの野球キャスターに就任した稲葉氏に対し、ニュースのなかでのスポーツコーナーのあり方について次のように述べた「ニュースや報道番組は、基本的に暗いじゃないですか。見たくないものや聞きたくないことで、ほとんどが埋め尽くされている。その中の短いスポーツコーナーで、見ている人が、少しホッとできたり、気晴らしになったりっていうことが、実はスポーツの大きな意義なのかなと思った。それを稲葉さんが伝えてくれたら、僕らも嬉しい」
法政大学時代 – ( 1991- 1995 )
そんな稲葉さんは高校卒業後に法政大学に進学しました。
1年の春から時にクリーンアップを任されることもありました。
在学時は、故障にも苦しみ本格的にレギュラーに定着したのは3年生の頃から。
4年生になると4番に定着。
秋季リーグ戦では打線の中心となってチームを引っ張り優勝へ導きました。
その打撃は当時ヤクルト監督を務めていた野村克也さんの目にも留まったよう。
プロからも注目される存在となりました。
大学打撃成績 – ( 1992 – 1995 )
年度 | 試合 | 打率 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 三振 | 四球 | 出塁率 |
91〜94 | 86 | .280 | 307/86 | 6 | 50 | – | – | – |
ドラフト会議 – ( 1994 )
そして1994年のドラフト3位でヤクルトに指名され、入団することとなったのです。
▲ ヤクルトドラフト3位、契約金8500万、年俸1000万
ドラフト指名選手 – ( ヤクルトスワローズ )
1位 | 北川 哲也 | 投手 | 日産自動車 |
2位 | 宮本 慎也 | 内野手 | プリンスホテル |
3位 | 稲葉 篤紀 | 内野手 | 法政大学 |
4位 | 吉元 伸二 | 外野手 | 三菱重工長崎 |
嫁さんは、どんな人?
稲葉さんは、2012年に結婚されています。
実はバツ1で現在の奥様は元モデルの渡部怜奈さん。
お二人の間には息子さんもいらっしゃいます。
そしてもう1つ気になるのが、稲葉さんの右頬にある大きなアザでしょう。
どうしても目に付く場所にあるので、気になる方も多いかと思います。
このアザの原因は本人も分からないようですが、「大田母斑」と呼ばれるもの・・・
稲葉さん自身はあえてそれを治すことなく、一見コンプレックスになりそうなものを跳ね返し、一流のプロ野球選手として生きてきたのです。
プロ入り後の野球人生は?
稲葉篤紀さんはとにかく野球に対して真摯に向き合う真面目な姿勢が非常に高く評価されています。
打撃センスでは一目置かれる存在ではあったものの、それ以上に練習に取り組む姿勢が大きな魅力の選手。
それは所属したチームの監督も口を揃えて評価するほどでした。
ルーキー時代 – ( 1995 )
即戦力として期待され入団。
1年目1995年、6月21日に行われた広島との試合で、プロ初出場を果たします。
その試合で初打席でホームランを放つというド派手なデビュー。
規定打席には遠く及ばなかったものの、打率3割7厘、8本塁打、40打点とその素質をいきなり1軍で発揮しました。
年度別打撃成績 -(1995)
1994年(22歳) ヤクルトドラフト3位 契約金8,500万
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995年(23) | 67 | .307(215打66安打) | 40 | 8 | 3 | 2 | 33 | 1000万 |
レギュラー時代 – ( 1996-1999 )
2年目から125試合に出場しレギュラーに定着、3年目には130試合に出場。
21本塁打を放ちプロ投手に負けない長打力も兼ね備えてきました。
その後は故障もあり、苦しんだ時期もありました。
ヤクルト絶頂期 – ( 2001 )
2001年には再びレギュラーに定着し、自身最高の25本塁打、90打点。
5年ぶりの打率3割超の好成績を残しリーグ優勝、日本一に貢献しました。
ヤクルト打線 (2001年度成績)
1番 | 真中 満 | センター | 試123 率.312(527打数164安打)本7 点36 盗7 |
2番 | 宮本 慎也 | ショート | 試125 率.270(477打数129安打)本1 点17 盗11 |
3番 | 稲葉 篤紀 | ライト | 試138 率.311(527打数164安打)本25 点90 盗5 |
4番 | ペタジーニ | ファースト | 試138 率.322(463打数149安打)本39 点127 盗4 |
5番 | 古田 敦也 | キャッチャー | 試121 率.324(441打数143安打)本15 点66 盗1 |
6番 | 岩村 明憲 | サード | 試136 率.287(520打数149安打)本18 点81 盗15 |
7番 | ラミレス | レフト | 試138 率.280(510打数143安打)本29 点88 盗1 |
8番 | 土橋 勝征 | セカンド | 試137 率.249(442打数110安打)本2 点31 盗1 |
9番 | 藤井 秀悟 | ピッチャー | 登27 防3.17(14勝8敗)投173.1 振124 |
ヤクルト時代は、故障が多く1シーズン通して試合に出場できればそれなりに成績が残せる印象。
2004年オフにFA宣言し、メジャー移籍も視野に入れましたが、結果的に北海道日本ハムを選択。
年度別打撃成績 -(1996-2004)
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1996年(24) | 125 | .310(436打数135安打) | 53 | 11 | 9 | 7 | 66 | 2200万 |
1997年(25) | 130 | .267(439打数117安打) | 65 | 21 | 9 | 10 | 67 | 4700万 |
1998年(26) | 88 | .279(258打数72安打) | 23 | 5 | 4 | 2 | 42 | 6600万 |
1999年(27) | 68 | .265(132打数35安打) | 22 | 2 | 3 | 1 | 26 | 5450万 |
2000年(28) | 87 | .281(274打数77安打) | 30 | 11 | 0 | 4 | 42 | 4800万 |
2001年(29) | 138 | .311(527打数164安打) | 90 | 25 | 5 | 13 | 89 | 4700万 |
2002年(30) | 116 | .266(448打数119安打) | 39 | 10 | 3 | 8 | 77 | 1億0000万 |
2003年(31) | 69 | .273(260打数71安打) | 30 | 11 | 4 | 3 | 48 | 8800万 |
2004年(32) | 135 | .265(437打数116安打) | 45 | 18 | 6 | 5 | 85 | 7800万 |
日本ハム時代 – ( 2005-2012 )
移籍後、ヤクルト時代と違い日ハムの野球を楽しむ姿勢に驚課されます。
キャンプ合流直後には1学年上の新庄剛志選手から「楽しんで」と声をかけられたという。
この年、127試合、打率.271、本塁打15、打点54の成績を残し、すぐさまレギュラーに定着。
日本ハム絶頂期 – ( 2006 )
2006年には、長打力強化に取組みキャリアハイとなる26本塁打をマーク。
リーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献。
日本ハム打線 (2006年度)
1番 | 森本 稀哲 | レフト | 試134 率.285(520打数148安打)本9 点42 盗13 |
2番 | 田中 賢介 | セカンド | 試125 率.301(376打数113安打)本7 点42 盗21 |
3番 | 小笠原 道大 | ファースト | 試135 率.313(496打数155安打)本32 点100 盗4 |
4番 | セギノール | 指名打者 | 試132 率.295(485打数143安打)本26 点77 盗0 |
5番 | 稲葉 篤紀 | ライト | 試128 率.307(488打数151安打)本26 点75 盗5 |
6番 | 新庄 剛志 | センター | 試126 率.258(438打数113安打)本16 点62 盗2 |
7番 | 髙橋 信二 | キャッチャー | 試78 率.251(223打数56安打)本6 点19 盗2 |
8番 | 木元 邦之 | サード | 試69 率.239(218打数52安打)本1 点21 盗4 |
9番 | 金子 誠 | ショート | 試126 率.254(393打数100安打)本6 点40 盗7 |
2007年は、小笠原選手がFA移籍し三番打者に定着。
打率3割3分4厘で自身初の首位打者も獲得します。
この年も球団の連覇にも大きく貢献しました。
年度別打撃成績 -(2005-2012)
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2005年(33) | 127 | .271(414打数112安打) | 54 | 15 | 3 | 1 | 82 | 6000万 |
2006年(34) | 128 | .307(473打数145安打) | 75 | 26 | 5 | 6 | 74 | 8000万 |
2007年(35) | 137 | .334(527打数176安打) | 87 | 17 | 6 | 0 | 69 | 1億4500万 |
2008年(36) | 127 | .301(448打数135安打) | 82 | 20 | 2 | 0 | 85 | 2億4000万 |
2009年(37) | 135 | .300(500打数150安打) | 85 | 17 | 5 | 2 | 96 | 2億5000万 |
2010年(38) | 137 | .287(530打数152安打) | 79 | 16 | 3 | 1 | 86 | 2億5000万 |
2011年(39) | 137 | .262(473打数124安打) | 54 | 12 | 4 | 7 | 71 | 2億0000万 |
2012年(40) | 127 | .290(449打数130安打) | 61 | 10 | 0 | 8 | 70 | 2億0000万 |
晩年 – ( 2013-2014 )
2013年からは徐々に試合で結果を残せなくなり、2014年限りで現役引退となりました。
年度別打撃成績 -(2013-2014)
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2013年(41) | 91 | .203(261打数53安打) | 24 | 3 | 0 | 1 | 48 | 2億0000万 |
2014年(42) | 44 | .234(77打数18安打) | 12 | 3 | 0 | 0 | 13 | 1億3000万 |
NPB通算:20年 | 2213 | .286(7578打数2167安打) | 1050 | 261 | 42 | 81 | 1269 | – |
タイトル・表彰
首位打者 | 1回 (2007年) |
最多安打 | 1回 (2007年) |
ベストナイン | 5回 (外野手部門:2001年、2006年 – 2009年) |
ゴールデングラブ賞 | 5回 (外野手部門:2006年 – 2009年 一塁手部門:2012年) |
月間MVP | 5回 (2006年7月、2007年9月、2009年5月、2011年7月、2012年4月) |
JA全農Go・Go賞 | 3回 (1996年6月、1996年8月、2005年9月) |
「ジョージア魂」賞特別賞 | 1回 (2014年) |
「ジョージア魂」賞 | 11回 (2014年度第12回) |
スピードアップ賞 | 2回 (2000年、2001年) |
札幌ドームMVP | 1回 (2007年) |
札幌ドームMVP功労賞 | 1回 (2014年) |
オールスターゲームMVP | 1回 (2011年第3戦) |
日本シリーズMVP | 1回 (2006年) |
日本シリーズ敢闘選手賞 | 1回 (2012年) |
日本シリーズ優秀選手賞 | 1回 (1997年) |
日本シリーズ特別賞 | 1回 (プロ野球ドリームナイン賞:2012年) |
パシフィック・リーグ特別功労賞 |
1回 (2014年) |
日本ハム時代には「稲葉ジャンプ」と呼ばれる、ファンが飛び跳ねながら応援するという独特な応援スタイルが誕生。
国際大会の実績は?
稲葉篤紀さんは、北京オリンピックの日本代表、さらに2009年、2013年と2大会連続でWBCの日本代表にも選ばれました。
北京オリンピック – ( 2008 )
年度別打撃成績 – ( 2008 )
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 三振 |
2008年(36) | 9 | .206(34打数7安打) | 6 | 1 | 1 | 5 |
2009年のWBCでは4番を務めるなど、チームの主軸として活躍。
2013年WBC時はすでに40代となっていましたが、日本代表の精神的支柱の役割を担います。
打っては大会最年長での本塁打を放つなどの活躍を見せました。
このように稲葉さんは国際大会でもプレーヤーの実績も豊富なのです。
WBC – ( 2009- 2013 )
年度別打撃成績 – ( 2009・2013 )
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 三振 |
2009年(37) | 8 | .318(21打数6安打) | 0 | 0 | 0 | 4 |
2013年(41) | 7 | .286(23打数6安打) | 1 | 1 | 0 | 3 |
指導歴は?
日本ハム時代には2013年に1年だけ1軍の打撃コーチを務めたこともありました。
2015年には侍ジャパンと欧州代表との試合で打撃コーチを務め、翌年も台湾やオランダとの強化試合で打撃コーチを務めました。
コーチとしての経験は短いながらも指導歴は、あります。
しかし今回は日本の代表チーム「侍ジャパン監督」です。
監督となれば、その経験は全くありません。
ただ、監督最有力として名を連ね次期監督は間違いない状況になっています。
がその背景には日本ハム時代からの若手に慕われた人望の厚さも大きな決め手となったようです。
指導歴
2013年 | 北海道日本ハムファイターズ |
2015年 | 侍ジャパン |
2016年 | 侍ジャパン |
「侍・稲葉監督」24日にも正式発表 20年東京五輪金託した!2017年7/20(木)
ヤクルト、日本ハムで活躍した稲葉篤紀氏(44)の侍ジャパン監督就任が週明けの24日にも正式発表される見通しであることが19日、分かった。2020年の東京五輪での金メダル獲得を託される。13年から指揮を執った小久保前監督は、3月のWBCをもって退任。プロ、アマ合同の侍ジャパン強化委員会の委員長を務める日本野球機構(NPB)の井原敦事務局長らが、08年北京五輪以来3大会ぶりに東京五輪で復活する野球で金メダルを獲得することを目指して人選を進め、複数の候補者から稲葉氏に一本化していた。稲葉氏は今年のWBCでは打撃コーチを務め、選手たちのよき相談役となっていた。東京五輪でも巨人・菅野、DeNA・筒香らが主力となることが予想され、選手たちと年齢も近く、代表でともに世界と戦った経験は大きなプラスとなりそうだ。
まとめ
注目されている侍ジャパン次期監督。
そこに急浮上し、確実視されている稲葉篤紀さん。
監督としての経験は全くありませんが、現役時代から選手、ファンからも人望が厚い人物。
監督としてはまだ若く、ハツラツとしているだけに、チームを明るくまとめ上げてく れるのではないでしょうか。
采配面では全く未知数です。
監督としての素養があるかも未知数ですが、持ち前の明るさでチームを1つにまとめてくれるのでは ないかと期待されます。