かつては近鉄バファローズ監督として「いてまえ打線」で優勝に導いた梨田昌孝監督。
2017年は、打撃力を武器にパリーグ上位争いをする楽天イーグルス。
温厚で優しそうな梨田監督ですが、果たしてその性格は?
梨田昌孝の経歴・生い立ち
梨田昌孝監督は島根県浜田市出身で、今年歳となります。
梨田 昌孝(なしだ まさた)-監督:東北楽天ゴールデンイーグルス (2016 – )
生年月日 | 1953年8月4日(歳) |
出身地 | 島根県浜田市 |
身長 | 178cm |
体重 | 75kg |
ポジション | 捕手 |
投打 | 右投右打 |
プロ入り | 島根県立浜田高等学校〜近鉄1971年ドラフト2位 |
NPB通算:17年 | 試1323 率.254(3444打874安打)本113 点439 盗41 |
浜田市立第一中学入学後から本格的に野球を始め、その当時から捕手を務めていました。
浜田高校時代 島根県 – ( 1969- 1972 )
卒業後は地元の浜田高校に進学し、3年生の時には春夏続けて甲子園に連続出場。
四番捕手で出場しましたが、ともに1回戦で敗退しています。
夏・甲子園 予選 – ( 1971 )
回戦 | 対戦校 | 勝敗 | |
島根・地区一回戦 | 川本 | ○ | 9-0 |
島根・地区代表戦 | 益田商 | ○ | 2-1 |
島根・準々決勝 | 大社 | ○ | 2-0 |
島根・準決勝 | 安来 | ○ | 7-2 |
準決勝 | 久賀(山口) | ○ | 7-1 |
決勝 | 岩国(山口) | ○ | 7-5 |
ドラフト会議 – ( 1971 )
その当時から強肩強打の捕手として知られる存在で、1971年のドラフト2位で近鉄に指名され、入団しました。
ドラフト指名選手 – ( 近鉄バファローズ )
1位 | 佐々木 恭介 | 内野手 | 新日本製鐵広畑 |
2位 | 梨田 昌崇 | 捕手 | 浜田高 |
3位 | 橘 健治 | 投手 | 津久見高 |
4位 | 羽田 耕一 | 内野手 | 三田学園高 |
5位 | 上水 流洋 | 投手 | 鹿児島商工高 |
6位 | 平野 光泰 | 外野手 | クラレ岡山 |
7位 | 池谷 公二郎 | 投手 | 金指造船所 |
8位 | 薮内 正彦 | 内野手 | 奈良・郡山高 |
9位 | 宮本 実 | 外野手 | 河合楽器 |
奥さん・子供は?
現役時代は近鉄一筋、そしてコーチ、監督としても2004年の球団消滅まで近鉄に在籍。
現在もご自宅は兵庫県伊丹市にあります。
兵庫県西部にあり、大阪への玄関口「伊丹空港」のある街です。
奥様は2歳年上で、上は女の子、下は男の子の2人のお子さんがいらっしゃいますが、2人ともすでに30歳を過ぎている立派な大人となっています。
また、家族思いのパパとしても有名です。
プロ入り後の野球人生は?
ルーキー時代 – ( 1972 )
入団直後は、1年目強肩を武器に頭角を現すも打撃で伸び悩みわずか9試合の出場にとどまりました。
年度別打撃成績 -(1972)
1971年(18歳) 近鉄ドラフト2位
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1972年(19) | 9 | .667(3打数2安打) | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
捕手併用時代 – ( 1973 – 1978 )
2年目には早くも60試合に出場。
1973年入団の有田修三選手と正捕手の座を熾烈に争い、「ありなしコンビ」という異名で、併用されていました。
有田修三&梨田昌孝“ダブル正捕手”ありなしコンビ
どちらが正捕手でもおかしくない実力者だった有田と梨田の通称「ありなしコンビ」。西本監督時代から併用され、有田が巨人にトレードされた85年まで続い た。有田はエース鈴木啓示が先発のときはほとんどマスクをかぶっていた。強肩とコンニャク打法で鳴らした梨田は引退後00年に監督に就任、01年には近鉄 最後の優勝監督になった。オリックスとの合併が決まった04年、最終戦前に選手たちに語った「お前たちの背番号はすべて近鉄バファローズの永久欠番だ」と いう名言は永久に不滅だ。
年度別打撃成績 -(1973-1978)
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1973年(20) | 60 | .197(142打数28安打) | 5 | 2 | 1 | 2 | 20 | |
1974年(21) | 115 | .194(247打数48安打) | 18 | 2 | 2 | 6 | 41 | |
1975年(22) | 45 | .159(69打数11安打) | 9 | 2 | 0 | 5 | 15 | |
1976年(23) | 48 | .271(48打数13安打) | 10 | 3 | 1 | 3 | 13 | |
1977年(24) | 80 | .247(190打数47安打) | 10 | 0 | 2 | 8 | 29 | 480万 |
1978年(25) | 58 | .267(120打数32安打) | 30 | 7 | 3 | 7 | 15 | 550万 |
一時は有田修三に正捕手の座を奪われるシーズンも経験しています。
有田 修三(ありた しゅうぞう)- 近鉄バファローズ (1973 – 1985)
生年月日 | 1951年9月27日(歳) |
出身地 | 山口県宇部市 |
身長 | 174cm |
体重 | 80kg |
ポジション | 捕手 |
投打 | 右投右打 |
プロ入り | 宇部商〜新日本製鐵八幡〜近鉄1972年 ドラフト2位 |
NPB通算:18年 | 試1313 率.247(3091打763安打)本128 点430 盗16 |
梨田昌孝vs有田修三 出場バトル -(現役時代)
年度 | 梨田昌孝 | 有田修三 |
---|---|---|
1972年 | 9(入団) | – |
1973年 | 60 | 17(入団) |
1974年 | 115 | 75 |
1975年 | 45 | 112 |
1976年 | 48 | 124 |
1977年 | 80 | 96 |
1978年 | 58 | 114 |
1979年 | 114 | 58 |
1980年 | 118 | 95 |
1981年 | 106 | 95 |
1982年 | 91 | 96 |
1983年 | 111 | 77 |
1984年 | 84 | 72 |
1985年 | 118 | 44 |
1986年 | 79 | 68(巨人移籍) |
1987年 | 35 | 30 |
1988年 | 52(引退) | 74 |
1989年 | – | 30 |
1990年 | – | 36(ダイエー移籍) |
計 | 1323 | 1313 |
正捕手時代〜 – ( 1979 – 1985 )
やがて身体を揺らす独自のバッティングフォーム「こんにゃく打法」を生み出し、打撃、守備の両面で結果を残し、近鉄正捕手の座を奪回。
特筆する数字などはありませんが、打てる捕手として名を馳せます。
打席で両腕をクネクネと動かすフォーム『コンニャク打法』
年度別打撃成績 -(1979 – 1985)
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1979年(26) | 114 | .272(357打数97安打) | 57 | 19 | 2 | 12 | 44 | 780万 |
1980年(27) | 118 | .292(360打数105安打) | 55 | 15 | 1 | 10 | 58 | 1200万 |
1981年(28) | 106 | .273(374打数102安打) | 48 | 17 | 5 | 1 | 47 | 1780万 |
1982年(29) | 91 | .290(279打数81安打) | 35 | 10 | 6 | 3 | 42 | 2000万 |
1983年(30) | 111 | .268(313打数84安打) | 42 | 8 | 7 | 5 | 37 | 1900万 |
1984年(31) | 84 | .249(241打数60安打) | 29 | 7 | 4 | 5 | 26 | 2100万 |
1985年(32) | 118 | .247(373打数92安打) | 51 | 11 | 3 | 10 | 46 | 2370万 |
チームメイトでのライバルは有田選手だったのかもしれませんが、チーム外ライバルは、世界の盗塁王とも呼ばれた阪急・福本豊選手。
福本 豊(ふくもと ゆたか)-阪急ブレーブス (1969 – 1988)
生年月日 | 1947年11月7日(歳) |
出身地 | 大阪府大阪市生野区 |
身長 | 168cm |
体重 | 68kg |
ポジション | 外野手 |
投打 | 左投左打 |
プロ入り | 大鉄高〜松下電器産業〜阪急1968年ドラフト7位 |
NPB通算:20年 | 試2401 率.291(8745打2543安打)本208 点884 盗1065 |
梨田選手自身も、福本選手の機動力対策には様々に頭を悩ませたそうです。
福本選手が出塁したときは、あえて右足を引く構えで、捕球からスローイングにも工夫を加え、それが功を奏したとされています。
このこともあって、梨田選手は1979年から3年連続、そして1983年と4度のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞しました。
守備力の高さ、とりわけ強肩には定評があったのです。
打者としても1979年には自身最多の19本塁打、1980年には打率2割9分2厘をマーク。
当時の近鉄のパリーグ連覇に大きく貢献し、この2年を含め、1981年と、3年連続でベストナインにも選ばれました。
何よりも、ぐにゃぐにゃと両腕を動かしながら打つという、特異なスタイルの「こんにゃく打法」と呼ばれる打撃フォームは独自に開発し結果を残し続けたのです。
【こんにゃく打法】梨田昌孝(近鉄)
近鉄の梨田昌孝独特の打法。梨田以外ではっきりこんにゃく打法と言われる選手は特にいないと思われる。腰を落として背中を丸め、全身をこんにゃくのように柔らかく小刻みに動かしながらタイミングを取る打法だ。始動してからの動きとしては、へそのあたりで低く構えたバットを少し上にテイクバックする。梨田はテイクバックの際に手が下がってしまう癖があり、それ以上下がらない位置まで手と体を下に落とした結果、独自の打法が生まれたのだという。打撃で悩み、正捕手の座を奪われた新人年のシーズン途中にこの独自の打法を編み出した。こんにゃく打法完成以降は勝負強い打撃を発揮して正捕手の座を奪回した。
晩年 – ( 1986-1988 )
1985年に118試合に出場して以降、徐々に出場機会は減っていきます。
年齢とともに自慢の強肩は衰え、打撃でも結果が残せなくなり、若手捕手が台頭してきたこともあって、1988年に現役を引退しました。
年度別打撃成績 -(1986 – 1988)
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986年(33) | 79 | .216(199打数43安打) | 25 | 6 | 2 | 6 | 27 | 3240万 |
1987年(34) | 35 | .234(64打数15安打) | 7 | 2 | 1 | 1 | 19 | 3050万 |
1988年(35) | 52 | .215(65打数14安打) | 8 | 2 | 1 | 0 | 13 | 2750万 |
通算:17年 | 1323 | .254(3444打数874安打) | 439 | 113 | 41 | 84 | 492 | – |
タイトル・表彰
ベストナイン | 3回 (1979年 – 1981年) |
ダイヤモンドグラブ賞 | 4回 (1979年 – 1981年、1983年) |
オールスターゲームMVP | 1回 (1983年 第2戦) |
引退後
引退後、しばらくはNHKの野球評論家として活躍していました。
1989年〜 | NHK野球評論家 |
1990年 – 1991年 | サンデースポーツ司会 |
近鉄時代 – ( 1993 – 2000 )
1993年からコーチとして再び近鉄のユニフォームに袖を通します。
3年後には2軍監督に、そして2000年には1軍の監督に就任しました。
1993年〜 | 一軍作戦兼バッテリーコーチ |
1996年〜 | 二軍監督 |
2000年〜2004年 | 一軍監督 |
2004年オフ、球団が消滅することとなり、大阪近鉄の最後の監督となったのです。
年度別監督成績 -リーグ公式戦
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 本塁打 | 打率 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000年(47) | 近鉄 | 6 | 135 | 58 | 75 | 2 | .436 | 20.0 | 125 | .262 | 4.66 |
2001年(48) | 近鉄 | 1 | 140 | 78 | 60 | 2 | .565 | – | 211 | .280 | 4.98 |
2002年(49) | 近鉄 | 2 | 139 | 73 | 64 | 2 | .533 | 16.5 | 177 | .258 | 3.93 |
2003年(50) | 近鉄 | 3 | 140 | 74 | 64 | 2 | .536 | 8.5 | 187 | .274 | 4.30 |
2004年(51) | 近鉄 | 5 | 133 | 61 | 70 | 2 | .466 | 17.0 | 121 | .269 | 4.46 |
通算:5年 | – | – | 687 | 344 | 333 | 10 | .508 | – | – | – | – |
その後、NHKに戻り、野球解説者を務めていました。
日本ハム監督時代 – ( 2008 – 2000 )
2008年には日本ハムの監督として、初めて近鉄以外のユニフォームに袖を通すことになりました。
2年目に優勝を飾り、4年間すべてでシーズン通じて勝ち越すという監督としての結果も残しました。
年度別監督成績 -リーグ公式戦
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 本塁打 | 打率 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2008年(55) | 日ハム | 3 | 144 | 73 | 69 | 2 | .514 | 4.0 | 82 | .255 | 3.54 |
2009年(56) | 日ハム | 1 | 144 | 82 | 60 | 2 | .577 | – | 112 | .278 | 3.65 |
2010年(57) | 日ハム | 4 | 144 | 74 | 67 | 3 | .525 | 3.0 | 91 | .274 | 3.52 |
2011年(58) | 日ハム | 2 | 144 | 72 | 65 | 7 | .526 | 17.5 | 86 | .251 | 2.68 |
通算:4年 | – | – | 576 | 301 | 261 | 14 | .536 | – | – | – | – |
楽天監督時代 – ( 1998 – 2000 )
退任後は再び野球解説者に戻りましたが、2016年から楽天の監督に就任。
今季で2年目となります。
年度別監督成績 -リーグ公式戦
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 本塁打 | 打率 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2016年(63) | 楽天 | 5 | 143 | 62 | 78 | 3 | .443 | 25.0 | 101 | .257 | 4.11 |
昨シーズンまで、通算10シーズンで監督を務め、2度の優勝、6度のAクラスに導いており、監督としての手腕の高さが数字にも表れています。
野球を離れると温厚で優しい雰囲気が漂う梨田昌孝監督。
よくオヤジギャグを飛ばしたりもしますが、時として選手に厳しく当たり、それが怖いという真逆のイメージを根付かせました。
かつてはノックアウトされ、ベンチでグラブを投げつけ、荒れていた投手をネグり倒した…そんな逸話も残っています。
普段は優しい顔を見せる梨田監督ですが、野球に対しては真摯で、曲がったことが大嫌いなのでしょう。
その一方で、大阪近鉄の最後の監督となった梨田監督ですが、球団が消滅することが決定し、選手たちが動揺する中、
「胸を張ってプレーしろ!」
「お前達がつけている背番号は近鉄バファローズの永久欠番だ!」
と選手を鼓舞し、その言葉は今でも語り継がれています。
また、チームが解散する中で、次のコーチの誘いもあったようですが、「選手たちより先に進路を決めるわけにはいかない」と断っていました。
それもまた監督としての人望の厚さにつながっています。
まとめ
梨田昌孝監督の監督としての成績を振り返ると、近鉄では2年目に「いてまえ打線」という圧倒的打撃力で、投手力の弱さをカバーして優勝に導きました。
そして日本ハムでも2年目に優勝を飾りました。
来季以降、楽天を優勝に導いてくれるのか、その手腕に注目されます。