2017年シーズンの巨人は、巨額を投じて行われた大型補強が功を奏さず・・・
シーズン前半は13連敗を喫し、一時は最下位まであとわずかというところまで沈みました。
そんな低迷の中で、ゼネラルマネージャーに就任することになった鹿取義隆さんとは、果たしてどのような人物なのでしょうか。
GM鹿取義隆の経歴・生い立ち
鹿取義隆さんは1957年3月10日生まれ、現在歳です。
鹿取 義隆(かとり よしたか)- 読売巨人軍球団ゼネラルマネージャー兼編成本部長 (2017 – )
生年月日 | 1957年3月10日(歳) |
出身地 | 高知県香美市 |
身長 | 174cm |
体重 | 78kg |
ポジション | 投手 |
投打 | 右投右打 |
プロ入り | 高知商業高〜明治大学〜巨人1978年ドラフト外 |
NPB通算:19年 | 登755(先発:16) 防2.76(91勝46敗131s)投1306.1 振846 |
高知県香美市出身で、高校は地元・高知の高知商業高校。
高知商業 時代 高知県 – ( 1972- 1975 )
控え投手だった高校2年のときに、夏の甲子園に出場。
巨人でバッテリーを組む山倉和博さんを擁する東邦高校を初戦で撃破。
ベスト8進出を果たしますが、強豪・広島商の捕手・達川光男さんにホームランを打たれたこともあったとか。
巨人・鹿取GMも甲子園視察 思い出は「達川さんにくそボールを…」 2017年8月8日
1日遅れで開幕となった甲子園。選手同様に各球団のスカウトも球場のネット裏に勢揃いした。シーズン途中でGMに就任した巨人・鹿取義隆氏もネット裏に陣取った。「あすは別の用事があるから、観戦はきょう1日なんです」と編成本部長も兼ねるため視察となった。高知商時代の73年、2年生で甲子園に出場。準々決勝 で優勝した広島商に敗れた。「あの試合、達川さん(現ソフトバンクヘッドコーチ)にホームランを打たれたんだよ。エンドランでくそボールをね」と球児のプ レーを見ながら、懐かしそうに振り返っていた。
第55回夏・甲子園 予選 – ( 1973 )
回戦 | 対戦校 | 勝敗 | |
二回戦 | 東邦(愛知) | ○ | 5-3 |
三回戦 | 盛岡三(岩手) | ○ | 延長14回 2-1 |
準々決勝 | 広島商(広島) | ● | 2-7 |
3年時は、県大会で敗れ甲子園出場は、果たせませんでした。
夏・高知予選 – ( 1974)
回戦 | 対戦校 | 勝敗 | |
二回戦 | 伊野商 | ○ | 11-1 |
三回戦 | 高知 | ● | 0-2 |
明治大学 時代 – ( 1975- 1979 )
高校卒業後は明治大学に進学しました。
2年の春からはベンチ入り。
3年の時には日米大学野球の日本代表に選ばれ、先発を負かされたことも会ったほど。
4年の時には大学の日本選手権で完封勝利で優勝を飾ったこともありました。
大学4年間で、リーグ戦で21勝14敗という成績を残しました。
明治大学 投手成績 – ( 1975 – 1979 )
年度 | 登板 | 勝敗 | 防御率 | 三振 |
75〜78 | 58 | 21勝14敗 | 1.89 | 219 |
ドラフト外入団 – ( 1978 )
大学卒業後は社会人野球に進む予定でしたが、1978年のドラフト会議で巨人は、江川卓投手の指名を巡る、いわゆる「江川事件」によって、会議そのものをボイコット。
しかし新人獲得のために、巨人は、鹿取投手をドラフト1位並み好条件でドラフト外入団を打診。
家族の反対もあったそうですが、それを説得して契約を結ぶことになったのです。
家族は? – ( 2016 )
鹿取さんはご結婚されており、息子さんがいらっしゃいます。
お名前は鹿取真央さんとおっしゃるようで、かつてはあの欽ちゃんこと萩本欽一さんが監督を務めていた茨城ゴールデンゴールズに所属していた時期もあるんだとか。
鹿取真央さんは、2009年同球団を退団しています。
鹿取義隆の現役時代
現役時代の鹿取義隆投手といえば、サイドスロー投手というイメージが強いことでしょう。
身長は174cmとけして体つきに恵まれていたわけではありません。
またストレートも140キロに届くのがやっとでした。
しかし、入団当初からサイドスローからのスライダー、シンカーを武器に、相手を手玉に取るピッチングで翻弄。
頼まれればすぐに肩を作れるというスピードある調整が可能だというエピソードもありました。
巨人時代 – ( 1979 – 1989 )
チーム事情から、時々先発を任される試合もありましたが、概ね中継ぎとして活躍。
1979年ルーキーイヤーから38試合に登板。
1985年からは、3年連続で50試合以上を投げています。
1987年にはクローザーとしてリーグ最多の63試合に登板。
7勝4敗18セーブの成績を残しました。
1989年は、藤田監督のもと先発完投型の投手起用が中心となりました。
それに伴い中継ぎ待機の鹿取投手はなかなか出番が恵まれず、調子を崩してしまいます。
その年オフに11年間在籍した巨人からパ・リーグの西武へのトレードが決まりました。
年度別投手成績 – (1979 – 1989)
1978年 (21歳) 巨人ドラフト外
年度 | 登板 | 防御率 | 勝敗 | 投球回 | 三振 | 年俸 |
1979年(22) | 38(先発0) | 3.36 | 3勝2敗2s | 59.0 | 29 | |
1980年(23) | 51(先発0) | 1.78 | 4勝3敗3s | 86.0 | 63 | |
1981年(24) | 22(先発0) | 2.37 | 1勝0敗 | 37.2 | 22 | |
1982年(25) | 21(先発5) | 4.50 | 3勝2敗 | 57.2 | 36 | |
1983年(26) | 38(先発5) | 3.64 | 5勝2敗1s | 94.0 | 64 | 840万 |
1984年(27) | 48(先発1) | 2.45 | 4勝3敗6s | 88.0 | 58 | 1200万 |
1985年(28) | 60(先発0) | 3.52 | 4勝5敗4s | 84.1 | 75 | 1920万 |
1986年(29) | 59(先発0) | 2.32 | 4勝3敗4s | 101.0 | 68 | 2280万 |
1987年(30) | 63(先発0) | 1.90 | 7勝4敗18s | 94.2 | 70 | 3240万 |
1988年(31) | 45(先発0) | 3.20 | 8勝4敗17s | 64.2 | 40 | 5200万 |
1989年(32) | 21(先発0) | 3.15 | 2勝1敗3s | 34.1 | 25 | 4800万 |
西武時代 – ( 1990 – 1997 )
西武に移籍してからも、サイドからの技巧的なピッチングは輝きを見せ、ルーキーのセットアッパー潮崎哲也さんと共に活躍。
移籍1年目の1990年24セーブをマークし、巨人時代の不調から見事復活します。
この時が、意外にもセーブ王のタイトル初獲得しています。
移籍1年目からその後も7年連続30試合以上に登板し、タフな右腕として活躍を続けました。
そんな活躍ぶりでも、年俸1億円の提示を受けても、9000万円で良いと断るというエピソードもあるほど。
1997年に膝の故障が悪化した事もあり、わずか8試合の登板に終わり、現役引退となりました。
巨人 (1979 – 1989)西武 (1990 – 1997)投手成績
年度 | 登板 |
巨人(在籍11年) | 45勝29敗58s |
西武(在籍8年) | 46勝17敗73s |
年度別投手成績 – (1990 – 1997)
年度 | 登板 | 防御率 | 勝敗 | 投球回 | 三振 | 年俸 |
1990年(33) | 37(先発0) | 3.00 | 3勝1敗24s | 45.0 | 26 | 4800万 |
1991年(34) | 34(先発0) | 1.78 | 7勝1敗8s | 70.2 | 37 | 6500万 |
1992年(35) | 38(先発1) | 2.47 | 10勝1敗16s | 76.2 | 41 | 8200万 |
1993年(36) | 42(先発1) | 2.25 | 5勝4敗16s | 68.0 | 47 | 1億0000万 |
1994年(37) | 40(先発0) | 3.40 | 7勝3敗5s | 76.2 | 53 | 1億3300万 |
1995年(38) | 43(先発0) | 2.42 | 6勝3敗2s | 85.2 | 43 | 1億4500万 |
1996年(39) | 47(先発0) | 2.40 | 7勝3敗2s | 75.0 | 48 | 1億4600万 |
1997年(40) | 8(先発0) | 9.82 | 1勝1敗 | 7.1 | 1 | 1億0300万 |
通算:19年 | 755(先発16) | 2.76 | 91勝46敗131s | 1306.1 | 846 |
タイトル・表彰
最優秀救援投手 | 1回 (1990年) |
月間MVP | 1回 (1984年7月) |
ファイアマン賞 | 1回 (1990年) |
現役引退後の活動は?
巨人コーチ時代 – ( 1998 – 2000 )
現役引退後の1998年から、巨人の2軍投手コーチに就任。
翌1999年からは1軍の投手コーチに昇格。
投手の起用法や指導には定評がありましたが、時にはチーム内コーチと衝突する事もあったようです。
1998年 | 二軍投手コーチ |
1999年 – 2000年 | 一軍投手コーチ |
2001年 | 1Aベロビーチ・ドジャースにコーチ留学 |
巨人ヘッドコーチ時代 – ( 2002 – 2003 )
2002年からはヘッドコーチという要職につきましたが、2003年にチームの不振の責任を取って、辞任することになりました。
2002年 – 2003年 | 巨人ヘッドコーチ |
茨城ゴールデンゴールズ ヘッドコーチ – ( 2005 )
巨人のコーチ職を辞任した鹿取さんは、2005年から1年間ではありましたが、社会人野球の茨城ゴールデンゴールズのヘッドコーチに就任しました。
日本代表 – ( 2006 – 2015 )
翌年にはWBCの日本代表投手コーチと務め、その後も野球解説者や野球評論家、日本代表投手コーチなど経て、2017年からは再び巨人に復帰。
2006年 | 第1回WBC 日本代表投手コーチ |
2014年 | 侍ジャパンU15代表監督 |
2015年 | 第1回WBSCプレミア12 日本代表投手コーチ |
ゼネラルマネージャーヘ – ( 2017 )
GM特別補佐に就任し、シーズン途中に、チームの未曾有の不振からGMが辞任したことを受けて、ついに巨人のGMに就任したのです。
求められたことに対して、文句を言わず、淡々と仕事をこなしていくという真面目なタイプの鹿取さん。
しかも、指導歴や野球歴も非常に長く、内部にも精通しているというのが、GMを務めていく上では大きなメリットとなるのでしょう。
まとめ
鹿取義隆さんがGMに就任して以降、チームの成績は徐々に上向いてきました。
ひとまず、シーズン中の急な人事でありましたが、GMの交代はプラスに働いているようです。
しかし、これからは来シーズンへ向けての補強だけでなく、年俸の交渉などの経営面でも手腕が試されます。
野球の知識だけでなく、経営の知識も問われる今後が注目されます。