昨年のオリックスは、リーグ戦、交流戦、オープン戦、さらには2軍まで、すべてが最下位という屈辱にまみれたシーズンとなってしまいました。
そんな悔しいシーズンを過ごし、今年に巻き返しを図る福良監督。
それにしても、昨年、すべてが最下位というシーズンだった福良監督は果たして有能なのでしょうか?
福良淳一の経歴・生い立ち
オリックスの福良淳一監督は宮崎県出身で現在歳。
福良 淳一(ふくら じゅんいち)-監督歴:オリックス・バファローズ (2013 – )
生年月日 | 1960年6月28日(歳) |
出身地 | 宮崎県東臼杵郡北浦町(現:延岡市) |
身長 | 175cm |
体重 | 78kg |
ポジション | 内野手 |
投打 | 右投右打 |
プロ入り | 宮崎県立延岡工〜大分鉄道管理局〜阪急1984年 ドラフト6位 |
NPB通算:13年 | 試1240 率.279(3999打1116安打)本50 点372 盗106 |
本格的に野球を始めたのは中学生からで、卒業後は地元・宮崎の延岡工業高校に進学。
延岡工業高校時代 宮崎県 – ( 1976- 1979 )
春2回・夏2回の甲子園出場を誇る地元の強豪校。
2年生の在籍時、1977年秋季九州大会ベスト8が最高成績。
3年間で甲子園の出場を果たすことができませんでした。
第60回選手権東京大会 – ( 1978 )
回戦 | 対戦校 | 勝敗 | |
二回戦 | 延岡 | ○ | 8-3 |
三回戦 | 宮崎商 | ● | 0-7 |
大分鉄道管理局時代 – ( 1979- 1985 )
高校卒業すると社会人の当時国鉄を管理していた大分鉄道管理局に入社。
社会人野球で地道に6年間プレーします。
主に打線では上位を守備ではセカンドを任され、都市対抗野球には補強選手として出場したことも。
ドラフト会議 – ( 1984 )
派手さはないもの、堅実な打撃と守備が注目され、1984年ドラフト会議で現在のオリックス、当時の阪急ブレーブスにドラフト6位で指名され入団しました。
ドラフト指名選手 – ( 阪急ブレーブス )
1位 | 白井 孝幸 | 投手 | 豊川高 |
2位 | 古溝 克之 | 投手 | 専売東北 |
3位 | 熊野 輝光 | 外野手 | 日本楽器 |
4位 | 高橋 智 | 投手 | 向上高 |
5位 | 二宮 正己 | 投手 | 熊本工業高 |
6位 | 福良 淳一 | 内野手 | 大分鉄道管理局 |
嫁さんは、どんな人?
往年のプロ野球選手はなかなかプライベートな情報が出回ることが少ないのですね。
結婚されていて、1988年にお子さんが誕生しているそうです。
すでにお子さんは立派に成人されているということになりますね。
プロ入り後の野球人生は?
ルーキー時代 – ( 1985 )
では福良監督の現役時代はどうだったのでしょうか。
即戦力と期待されながら、1年目はなかなか思うような結果残せなかったものの、2年目には早くも一気に頭角を現します。
年度別打撃成績 -(1985)
1984年(24歳) 阪急ドラフト6位 契約金3,000万
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985年(25) | 37 | .250(16打4安打) | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 360万 |
レギュラー獲得へ – ( 1986-1989 )
2年目は、堅実な守備と打撃でセカンドのレギュラーを奪い、打率3割9厘と結果を残しました。
1988年にはオールスターゲームの初出場し、満塁ホームランを放つと言うド派手な活躍。
シーズンでもパリーグ3位となる3割2分の打撃成績を残し、ベストナインに選ばれました。
翌年には背番号も1に変わり、オリックスに親会社が代わってからの第1号ホームランを放つなど、チームの主力として不可欠な存在となっていたのです。
年度別打撃成績 -(1986-1989)
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986年(24) | 122 | .309(404打数125安打) | 44 | 12 | 14 | 11 | 43 | 440万 |
1987年(25) | 130 | .263(463打数122安打) | 40 | 8 | 12 | 14 | 49 | 960万 |
1988年(26) | 110 | .320(410打数131安打) | 33 | 7 | 12 | 15 | 31 | 1340万 |
1989年(27) | 115 | .259(394打数102安打) | 47 | 8 | 8 | 29 | 39 | 3000万 |
1989年新球団となったオリックスは当時ブルーサンダー打線と呼ばれた強力打線が売りでした。
▲ 前年、南海ホークス主軸であった門田博光選手がブルーサンダー打線の四番を勤めました。
この年、松永浩美選手、ブーマー、門田博光選手、藤井康雄選手がベストナインに選ばれた破壊力ある重量打線。
福良選手は、一時戦線離脱しましたがシーズンを通し、二番打者として活躍しました。
ブルーサンダー打線 (1989年度)
1番 | 松永 浩美 | サード | 試124 率.309(470打数145安打)本17 点60 盗14 |
2番 | 福良 淳一 | セカンド | 試115 率.259(394打数102安打)本8 点47 盗8 |
3番 | ブーマー | ファースト | 試130 率.322(512打数165安打)本40 点124 盗2 |
4番 | 門田 博光 | 指名打者 | 試116 率.305(406打数124安打)本33 点93 盗0 |
5番 | 石嶺 和彦 | レフト | 試130 率.277(487打数135安打)本20 点77 盗1 |
6番 | 藤井 康雄 | ライト | 試121 率.292(432打数126安打)本30 点90 盗3 |
7番 | 本西 厚博 | センター | 試120 率.302(281打数85安打)本5 点33 盗8 |
8番 | 中嶋 聡 | キャッチャー | 試121 率.234(320打数75安打)本5 点26 盗2 |
9番 | 小川博文 | ショート | 試115 率.247(344打数85安打)本5 点32 盗7 |
ケガとの戦いだった現役生活 – ( 1990-1994 )
しかしその後は度重なる故障や腰痛にも悩まされました。
それでも困難を克服し、けして派手さはなく、むしろ地味ではありますが、堅実なバッティングと安定した守備でチームを支えました。
1993年4月28日から1994年7月31日まで二塁手・836連続守備機会無失策。
二塁手として今でも日本記録として輝いております。
いかにも堅実なプレーが持ち味の福良選手らしい記録といえます。
年度別打撃成績 -(1990-1994)
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1990年(28) | 53 | .211(114打数24安打) | 11 | 1 | 7 | 6 | 12 | 2970万 |
1991年(29) | 104 | .273(355打数97安打) | 26 | 3 | 15 | 22 | 24 | 2500万 |
1992年(30) | 114 | .284(409打数116安打) | 37 | 3 | 13 | 24 | 52 | 3600万 |
1993年(31) | 130 | .267(453打数121安打) | 30 | 2 | 20 | 31 | 42 | 5000万 |
1994年(32) | 114 | .301(386打数116安打) | 50 | 3 | 4 | 33 | 39 | 6800万 |
晩年 – ( 1995-1997 )
晩年は膝の故障や、若手への切り替えというチーム方針の中で徐々に出場機会が減り、1997年限りで現役を引退することになりました。
常に野球に対してまじめに取り組む姿勢は若手の手本となり、チームメイトからの信頼も厚かったようです。
これも福良選手らしさなのでしょう。
プロ通算1240試合に出場し、生涯打率は2割7分9厘、50本塁打となっています。
年度別打撃成績 -(1995-1997)
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995年(33) | 53 | .278(162打数45安打) | 19 | 4 | 0 | 11 | 14 | 1億0200万 |
1996年(34) | 92 | .284(289打数82安打) | 26 | 0 | 0 | 22 | 38 | 1億0200万 |
1997年(35) | 66 | .215(144打数31安打) | 8 | 0 | 0 | 6 | 18 | 9700万 |
プロ通算:13年 | 1240 | .279(3999打数1116安打) | 372 | 50 | 106 | 224 | 402 | – |
タイトル・表彰
ベストナイン | 2回 (1988年、1994年) |
月間MVP | 1回 (1988年7月) |
オールスターゲーム選出 | 1回 (1988年) |
同年代のライバルがすごい
福良監督が現役時代、同世代のライバル達を見てみると、それはすごい顔ぶれです。
パリーグでは近鉄の大石大二郎選手。
キャリアハイ年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 |
1984年(26) | 130 | .282(528打数49安打) | 65 | 29 | 46 | 10 |
現在西武の監督を務めている辻発彦選手。
キャリアハイ年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 |
1989年(31) | 130 | .304(437打数133安打) | 52 | 3 | 33 | 9 |
ロッテの西村徳文選手。
キャリアハイ年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 |
1990年(30) | 117 | .338(438打数148安打) | 38 | 3 | 35 | 18 |
日本ハムの白井一幸選手。
キャリアハイ年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 |
1987年(26) | 130 | .265(499打数132安打) | 63 | 15 | 21 | 30 |
またセリーグにも首位打者を争うことも多く、同率で首位打者に輝いたこともある巨人・篠塚和典選手。
キャリアハイ年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 |
1984年(27) | 126 | .334(461打数154安打) | 66 | 12 | 7 | 9 |
広島・正田耕三選手。
キャリアハイ年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 |
1989年(27) | 128 | .323(498打数161安打) | 25 | 3 | 34 | 23 |
そして「スーパーカートリオ」の一角だった大洋・高木豊選手らがいます。
キャリアハイ年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 |
1991年(32) | 131 | .333(490打数163安打) | 62 | 4 | 24 | 7 |
彼らのいずれも、リードオフマンで、守備が上手く、いわゆる「いぶし銀」の選手ばかり。
もちろん福良選手もプロ野球界でも屈指の「いぶし銀」。
こう考えると、この世代は「いぶし銀世代」なのかもしれませんね。
現役引退後は
オリックス時代 – ( 1998 – 2000 )
現役時代からチームメイトからの信頼が厚かった福良監督は、引退の翌年から2軍コーチを務め、2000年からはスカウトとしても活躍しました。
経歴
1998年 | 二軍打撃兼内野守備走塁コーチ |
1999年 | 二軍守備走塁コーチ |
2000年 | スカウト |
日ハム時代 – ( 2005 – 2012 )
その後2005年から2012年までの8年間は、日本ハムでコーチや2軍監督などを歴任。
とりわけ1軍の打撃コーチに就任していた2009年にはチームのリーグ優勝にも貢献しました。
経歴
2005年〜2006年 | コーチ |
2007年 | 二軍監督 |
2008年〜2012年 | 一軍ヘッドコーチ、打撃コーチ兼任 |
オリックス時代 – ( 2013 – )
2013年にはオリックスにヘッドコーチとして復帰。
2015年は成績不振によって休養した森崎浩司監督の代理監督を務め、翌年から正式にオリックスの1軍監督に就任し今に至っています。
経歴
2013年〜2014年 | 一軍ヘッドコーチ |
2015年 | 一軍ヘッドコーチ、一軍監督代行 |
2016年〜2017年 | 一軍監督 |
このように引退後はコーチやスカウトさらには監督までと幅広く活躍。
実績も豊富で、特に若手を育成してきた経験が長いのが特徴です。
イチローも尊敬する福良氏 若手育成、指導力に定評
福良氏がコーチ就任後の日本ハムでは新庄、小笠原、スレッジ、森本ら主力がチームから抜けたが、それを補うように糸井、中田、陽岱鋼らを育て、今季も優勝争いを展開。若手の育成、指導力に定評がある。
また人望も非常に厚い人物です。
小谷野栄一選手は日本ハム時代にFAでオリックス移籍を決心したのは、当時コーチだった福良監督がいたからと言うのが大きな理由だったそうです。
それほど選手からの信頼が厚いのです。
小谷野栄一に襲った突然の症状
小谷野栄一選手がパニック障害になったのは2006年の頃で、その時はまだ2軍の選手だった。ある日の2軍の試合で打席に立とうとした小谷野栄一選手は、突 然吐いてしまいました。呼吸もどんどん苦しくなり「パニック」になっていくという恐ろしい体験をしてしまい、小谷野栄一選手は、それから徐々に2軍の試合 にも出られないようになっていった。小谷野栄一選手は、日に日に悪化していき、ついに練習にも参加できなくなり寮にこもる日々が続きました。当時、2軍の コーチだった福良淳一は、小谷野栄一にこう言葉をかけた。「何回タイムかけてもいい。何回吐いてもいい。何回倒れてもいい。打席に立つまでに何分かけても いい。なんだったら、バットを振らなくてもいい。だから、とにかく打席に立て。まずはそこから始めようやないか。どうせみんな日本シリーズに(気が)行っ てしまっているし、誰も観てないから。」これは、多少無理させても、小谷野栄一選手を打席に立たせ続けて慣れさせようとする「荒療治」だった。小谷野栄一 選手は「眠れない・食べれない・打席に立つ時に吐き気・めまいがする」という状況が続いたが、1ヶ月に渡り2軍の試合に出続け大活躍をしました。結果が出 たことが自信となった小谷野選手は、徐々にパニック障害を克服(完治はしていない)していったのです。
監督としての能力は?
福良監督の経歴を見ていくと、勝利を重視して采配を振っていくというよりも、若手を育てていくという経験や実績が大きいようです。
そのために勝利にこだわる采配ができるかどうかについてはまだ未知数な面も多々あります。
若手を育てられる手腕は、昨年どん底を経験したオリックスだからこそ発揮できるでしょう。
監督としての能力と言うよりもチームとして成熟させることができる監督、それが福良監督なのではないでしょうか。
優勝が狙えるチームになるためには、もう数年ほどかかるかもしれません。
年度別監督成績 -リーグ公式戦
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 本塁打 | 打率 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2015年(55) | オリックス | 5 | 89 | 42 | 46 | 1 | .477 | 30.0 | 94 | .249 | 3.59 |
2016年(56) | オリックス | 6 | 143 | 57 | 83 | 3 | .407 | 30.0 | 84 | .253 | 4.18 |
通算:2年 | – | – | 232 | 99 | 129 | 4 | .434 | – | – | – | – |
まとめ
昨年は何をやっても最下位に終わったオリックス。
これ以上下がることのないほどのどん底を味わいました。
しかし今シーズンはオープン戦そして交流戦で最下位を脱出し、ペナントレースでも最下位を脱出できそうな兆しが見えてきました。
昨年よりはやや上昇傾向にある福良オリックス。
これから先もどのように選手をまとめ、さらに上を目指していくかが注目されます。