今やパリーグの常勝軍団となった福岡ソフトバンク。
そんなチームの選手の中で中心選手となっているのがベテラン・内川聖一選手です。
これまでのプロ野球生活で数多くの実績を積み重ね、2017年シーズン確実視されていた通算2000本安打は、怪我の影響で2018年来季持ち越しに・・・
そんな内川聖一選手について、詳しく見てみます。
内川聖一の経歴・生い立ち
内川聖一選手は大分市出身の歳。
福岡ソフトバンクに在籍しているベテラン選手です。
内川 聖一(うちかわ せいいち)- 福岡ソフトバンクホークス (2011 – )
生年月日 | 1982年8月4日(歳) |
出身地 | 大分県大分市 |
身長 | 185cm |
体重 | 93kg |
ポジション | 内・外野手 |
投打 | 右投右打 |
プロ入り | 大分工業〜横浜2000年ドラフト1位 |
NPB通算:17年 | 試1769 率.310(6380打1975安打)本176 点886 盗37 |
ご両親と弟さんの4人家族で育ち、内川選手自身が野球を始めたのは小学生時代にクラブチームに入ったことがきっかけでした。
大分工業時代 大分県 – ( 1998- 2001 )
内川選手は地元、大分工業高校に進学します。
実はこの高校の監督がお父さんだったのです。
▲ 指揮する父・内川一寛(いっかん)監督
お父さんは息子だからこそ、他の選手たちと分け隔てなく指導するために、より厳しく接したそうです。
▲大分工業高校時代の内川聖一選手
監督の父と目指した甲子園 タカ・内川「何事も貪欲に」 2017年7月17日
初めて甲子園に行ったのは、小学5年の時。1993年夏、父が監督を務めていた大分工が45年ぶりに出場し、初戦を観戦した。最初はスタンドの上の方で見ていたが、途中から1歳下の弟と一緒に父が指揮をとるベンチのすぐ裏まで移動した。大歓声がアルプス席でこだましていた。父は東京六大学、社会人を経て、郷里の大分で高校野球の指導者。小中学生の頃、雨で練習が休みになると、バッティングセンターに連れて行ってくれた。幼い頃から野球しかなく、野球が当たり前だった。父と甲子園を目指すために大分工への進学を決めた。だが、入学前に父から言われた。「他の選手と実力が五分と五分なら絶対に使わない。10人の選手がいたら、10人がお前がうまいと言わないとだめだ」
金属製の歯が入ったスパイク、大きく名前を入れた全身白の練習着――。高校野球はすべてが新鮮だった。尻を大きくして強さを見せるために、スライディングパンツにタオルを縫い付けてはいた。
監督としての父は厳しかった。ミスが続いたり、声が出ていなかったりして逆鱗(げきりん)に触れると、最初のウォーミングアップから練習をやり直しさせられた。
外では「内川先生」と呼び、家では話をしない。夕飯を一緒に食べなくて済むよう、帰宅をずらした。
高1の秋、左かかとの骨が溶ける「骨嚢腫(こつのうしゅ)」を患った。3度の手術を受けて約3カ月入院し、生まれて初めて野球から離れた。「恵まれた環境にいたことを痛感した。より真剣に野球と向き合うようになった」高2の春ごろ復帰。追って弟も進学してきた。高校野球漬けの3人を母が支えた。「家族4人で甲子園」が目標になった。2000年7月、主将として臨んだ最後の大分大会。甲子園切符をかけて決勝を中津工と戦った。序盤から互いに点を許さない展開。しかし五回、無死満塁から3点を失った。4番で臨んだが、安打は1本も打てなかった。チームは1安打に封じられ、0―4で敗戦。「力を全部出し切ったと思う」。そう言葉を残し、夏は終わった。
弟さんは、内川選手より1つ年下で、同じ大分工業高校に進学。
兄弟で甲子園を目指した時期もありました。
ちなみにお母さんは、元キャビンアテンダントです。
内川選手は高校時代にかかとの骨に穴が開く病気で3度の手術を受けました。
それでも高校通算で43本塁打を放ち、強肩強打の遊撃手としてプロからも注目の的となりました。
第82回夏・甲子園 大分大会 – ( 2000 )
回戦 | 対戦校 | 勝敗 | |
二回戦 | 楊志館 | ○ | 8-1 |
三回戦 | 鶴崎工 | ○ | 10-5 |
準々決勝 | 大分舞鶴 | ○ | 11-4 |
準決勝 | 大分雄城台 | ○ | 3-2 |
決勝 | 中津工 | ● | 0-4 |
ドラフト会議 – ( 2000 )
甲子園出場は惜しくも果たすことはできませんでしたが、その素質の高さが評価され、2000年のドラフト1位で横浜ベイスターズに入団することとなりました。
ちなみにこの時、広島東洋カープからの指名も有り得る状況でした。
当時カープは、猛練習で有名。
ケガを抱えたような状態では入団してもやっていくのが厳しいと判断して、カープから指名があった場合、入団を拒否する意向も示していました。
ドラフト指名選手 – ( 横浜ベイスターズ )
1位 | 内川 聖一 | 外野手 | 大分工業高 |
2位 | 吉見 祐治 | 投手 | 東北福祉大学 |
3位 | 後藤 伸也 | 投手 | 東北高 |
4位 | 東 和政 | 投手 | 宿毛高 |
5位 | 鈴木 健之 | 投手 | 藤代高 |
6位 | 西崎 伸洋 | 捕手 | 糸島高 |
7位 | 稲嶺 茂夫 | 投手 | 東海大学 |
8位 | 竹下 慎太郎 | 投手 | 大分硬式野球倶楽部 |
9位 | 渡辺 雅弘 | 捕手 | 東北高 |
お嫁さん・子供は
内川選手の奥さんは元フジテレビアナウンサーの長野翼さん。
長野 翼(ながの つばさ)-元フジテレビの女性アナウンサー (2003年 – 2011年)
生年月日 | 1981年3月16日(歳) |
出身地 | 愛媛県 |
血液型 | A型 |
最終学歴 | 早稲田大学第一文学部 |
職歴 | 元フジテレビジョンアナウンサー |
インタビューが出会いのきっかけ。
女子アナとプロ野球選手の組み合わせは特に珍しくもないのですが、内川選手と嫁さんも取材を通して知り合い、知人を通して交際がスタート。
交際を始めて1年後の2010年に結婚し、奥さんは寿退社。
結婚後、2人の間には女の子と男の子が1人ずつ誕生し、2児の父となり、良きパパぶりを発揮しているようです。
元々、奥さんは内川選手に関して、一緒にいて飽きないところが好きだったようです。
一途であり、個性的でもある内川選手の性格に惹かれたんでしょうね。
お子さんとは凧揚げを2人でやっているエピソードもありますし、とても家族を大切にしています。
プロ入り後
今となっては福岡ソフトバンクの主力選手としてのイメージが定着した内川選手。
入団当時は、横浜ベイスターズ。
横浜ベイスターズ 下積み時代 – ( 2001 – 2005 )
期待の高さもあってプロ1年目から1軍での出場を経験。
2年目にはプロ初ホームランを放つなど順調に成長を遂げていました。
その後は故障や野手の戦力層の厚さもあって、なかなか1軍でレギュラーに定着することはできませんでした。
この頃、トレードマークのアゴが右側に曲がって頸椎の神経を圧迫するという珍しい症例に悩まされます。
力が入らなくなりボールすら握れなくなる事態にまで発展しています。
結局、奥歯の噛み合わせを矯正することで事なきを得ましたが、高校時代の骨嚢腫も含めて、珍しいタイプの怪我をしているのも内川選手の特徴になっています。
年度別打撃成績 -(2001 – 2005)
2000年(18歳) 横浜ベイスターズ ドラフト1位 契約金8,000万円
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2001年(19) | 3 | .000(2打数0安打) | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 840万 |
2002年(20) | 42 | .333(66打数22安打) | 7 | 2 | 0 | 3 | 13 | 820万 |
2003年(21) | 45 | .313(150打数47安打) | 18 | 4 | 4 | 6 | 13 | 1500万 |
2004年(22) | 94 | .287(338打数97安打) | 45 | 17 | 7 | 12 | 42 | 1820万 |
2005年(23) | 90 | .274(234打数64安打) | 23 | 5 | 1 | 6 | 36 | 2500万 |
横浜ベイスターズ レギュラー獲得へ – ( 2006 – 2010 )
2006年には外野手としてスタメン起用が増え、そして2008年、ファーストでレギュラーを獲得。
持ち味の打撃センスが一気に開花し、打率3割7分8厘の右打者としてはセリーグ最高打率で初めて首位打者のタイトルを獲得しました。
この年から3年連続で打率3割をマーク。
内川選手は押しも押されぬセリーグを代表するバッターとなったのです。
年度別打撃成績 -(2006 – 2010)
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2006年(24) | 124 | .286(402打数115安打) | 34 | 4 | 8 | 7 | 64 | 2500万 |
2007年(25) | 92 | .279(247打数69安打) | 29 | 7 | 3 | 4 | 37 | 3500万 |
2008年(26) | 135 | .378(500打数189安打) | 67 | 14 | 2 | 5 | 49 | 3000万 |
2009年(27) | 132 | .318(503打数160安打) | 66 | 17 | 1 | 2 | 56 | 8500万 |
2010年(28) | 144 | .315(577打数182安打) | 66 | 9 | 1 | 3 | 51 | 1億7000万 |
FA宣言 下積み時代 – ( 1987 – 1994 )
そして2010年のシーズン中に国内FA権を獲得しました。
高校時代からその素質に注目していた広島東洋カープ。
内川選手の地元九州を本拠地とする福岡ソフトバンク。
この2球団が獲得に名乗りを上げ、4年契約で福岡ソフトバンクへの入団が決まったのです。
内川、鷹への移籍表明「優勝を経験したい」 2010/12/2(木)
初 横浜から国内フリーエージェント(FA)宣言した内川聖一内野手(28)のソフトバンクへの移籍が1日、決まった。内川が横浜市内のホテルで記者会見し、 「ソフトバンクにお世話になります」と表明した。大分県出身の内川は決断の理由として地元九州でのプレーなどを挙げ、「九州の熱い地で優勝を経験してみた い」と話した。ソフトバンクは年俸変動制の4年契約を提示、総額は最大で13億6千万円になるという。
ソフトバンク時代 – ( 2011 – )
その後の内川選手の福岡ソフトバンクでの活躍は言うまでもなく、常勝軍団の礎を作り、現在では主にファースト。
チームの4番として、そして精神的なチームの支えとなっています。
年度別打撃成績 -(2011 – 2017)
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2011年(29) | 114 | .338(429打数145安打) | 74 | 12 | 4 | 0 | 48 | 1億7000万 |
2012年(30) | 138 | .300(523打数157安打) | 53 | 7 | 6 | 0 | 36 | 1億7000万 |
2013年(31) | 144 | .316(570打数180安打) | 92 | 19 | 1 | 0 | 47 | 1億7000万 |
2014年(32) | 122 | .307(488打数150安打) | 74 | 18 | 0 | 0 | 48 | 2億7000万 |
2015年(33) | 136 | .284(529打数150安打) | 82 | 11 | 1 | 0 | 55 | 3億0000万 |
2016年(34) | 141 | .304(556打数169安打) | 106 | 18 | 3 | 0 | 53 | 3億3000万 |
2017年(35) | 73 | .297(266打数79安打) | 50 | 12 | 0 | 0 | 26 | 3億5000万 |
通算:16年 | 1769 | .310(6380打数1975安打) | 886 | 176 | 37 | 48 | 674 | – |
タイトル・表彰
内川選手はこれまでに数多くのタイトルを獲得しています。
首位打者に関しては2008年、2011年の2度獲得。
これまでにプロ野球史で、内川選手を含めてわずか2人しかいないセパ両リーグで首位打者獲得者となっています。
初首位打者獲得後は、7年連続での3割到達。
7年連続3割打者
年度 | 安打 | 打率 |
2008 | 189 | .378 |
2009 | 160 | .318 |
2010 | 182 | .315 |
2011 | 145 | .338 |
2012 | 157 | .300 |
2013 | 180 | .316 |
2014 | 150 | .307 |
またベストナインは1塁手として1度、外野手として4度受賞。
2014年には日本シリーズのMVPも獲得しました。
横浜、そしてソフトバンクと、常に第一線で活躍を続けています。
タイトル・表彰
首位打者 | 2回(2008年、2011年) ※両リーグでの首位打者は2人のみ。 |
最多安打 | 2回(2008年、2012年) |
最高出塁率 | 1回(2008年) |
MVP | 1回(2011年) |
ベストナイン | 通算5回(一塁:2008年、外野:2009年、2011年、2012年、2013年) |
セ・リーグ会長特別賞 | 1回(一2008年、右打者史上最高打率に対しての表彰) |
月間MVP | 5回(2008年8月、2011年4月、2013年8月、2014年7月、2016年9月) |
「ジョージア魂」賞 | 2回(2011年度第12回、2013年度第8回) |
オールスターゲームMVP | 2回((2013年 第3戦、2017年 第1戦) |
オールスターゲーム ベストバッター賞 | 1回(2008年 第2戦[注 2]) |
オールスターゲーム マツダビアンテ賞 | 1回(2008年) |
セ・パ交流戦MVP | 1回(2011年) |
クライマックスシリーズMVP | 2回(2011年、2015年) |
日本シリーズMVP | 1回(2014年) |
日本シリーズ特別賞 | 1回(2011年、みんなで選ぶコナミ賞・ドリームナイン賞・BH賞) |
パ・リーグ特別表彰 | 1回(2011年:史上2人目となるセ、パ両リーグで首位打者を獲得) |
報知プロスポーツ大賞 | 1回(2011年) |
大分市民栄誉賞 | 2008年 |
日本代表として – ( 2009 – 2017 )
WBCを2009年、2013年、2017年と3度出場。
2013年の準決勝・プエルトリコ戦ではセカンドランナーがとどまっていたにも関わらず、1塁ランナーの内川選手が盗塁。
一二塁間に挟まれてチャンスをつぶすという不可解なプレーもありました。
WBC打撃成績 -(2009 – 2017)
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2009年(27) | 6 | .333(18打数6安打) | 4 | 1 | 0 | 0 | 1 | .400 |
2013年(31) | 6 | .348(23打数8安打) | 4 | 1 | 1 | 0 | 3 | .400 |
2017年(35) | 6 | .375(8打数3安打) | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | .455 |
通算2000本安打
2016年終了時で2000本安打金字塔まで残り104本。
開幕当初、内川選手は強打を誇る福岡ソフトバンクの4番を務めていました。
しかし、6月2日の横浜DeNAとの試合でスイングの際に首を痛めたことで2軍降格。
打線の軸が抜けたことでチームに大きな衝撃が走りましたが、柳田悠岐選手やデスパイネ選手がその穴を埋めています。
長期離脱が響き残念ながら2017シーズン中にの2000安打到達は、失敗に終わりシースン終了時で残り25本。
通算安打数 – (2001 – 2017)
年度 | 安打 | 打率 |
2001年 | 0安打 | .000 |
2002年 | 22安打 | .333 |
2003年 | 47安打 | .313 |
2004年 | 97安打 | .287 |
2005年 | 64安打 | .274 |
2006年 | 115安打 | .286 |
2007年 | 69安打 | .279 |
2008年 | 189安打 | .378 |
2009年 | 160安打 | .318 |
2010年 | 182安打 | .315 |
2011年 | 145安打 | .338 |
2012年 | 157安打 | .300 |
2013年 | 180安打 | .316 |
2014年 | 150安打 | .307 |
2015年 | 150安打 | .284 |
2016年 | 169安打 | .304 |
2017年 | 79安打 | .297 |
通算 | 1975安打 | .310 |
来季は、間違いなく達成できるでしょう。
まだまだ主力として活躍できる力があるだけに2000本安打は一つの通過点。
来シーズン当初にクリアして、さらに上の記録を目指して欲しいところです。
まとめ
2017年シーズン2000本安打は間違いないだろうと思われた矢先の首痛。
これまで幾多の故障を乗り越えてきたベテランは、スタメン復帰を果たし、来季こそ金字塔を打ち立てることでしょう。
常勝軍団の礎を築いてきた内川選手。
これからもソフトバンクの主軸として活躍を続けることでしょう。